応用倫理学入門
[第6回] 幇助死の倫理
連載 澤井 努
2025.02.11 医学界新聞:第3570号より
もしあなたが,不可逆的な病状によって余命6か月以内と診断され,激しい苦痛と日々向き合わざるを得ない状況に置かれたとしたら,どのような選択をするでしょうか。
医療の進歩に伴い,「生きる」ことの可能性が大きく広がった現代社会において,「死を迎える在り方」もまた多様な形で議論されるようになっています。その一端として,安楽死や自殺幇助などを含む「幇助死」(assisted dying)に関する法整備や制度設計の動きが,世界各国で加速してきました。特に,イギリス下院では2024年11月29日に終末期患者へ幇助死を認める法案が可決され,今後の最終採決や上院での審議に大きな注目が集まっています。
幇助死とは何か――定義と用語整理
「幇助死」という言葉の曖昧さには注意が必要です。一般に「安楽死」という用語は,医師などの第三者による患者への致死薬の投与を指すことが多いですが,「自殺幇助」は,医師が薬剤を用意して点滴を患者につなぎ,患者が自らバルブを開いて薬剤を体内に注入する行為を指します。イギリスで可決された法案の内容は後者に相当し,患者本人が致死薬を「自ら服用」する形式が特徴とされています。
また幇助死は,延命治療の中止や緩和ケアと混同されがちですが,これらは医療現場での「治療行為の最適化」や「苦痛の軽減」を目的とするケースが多く,必ずしも直接的に死をもたらすものではありません。幇助死を論じる際には,こうした関連概念との違いを正確に理解しておくことが大切です。
医療倫理の四原則と幇助死
医療倫理を語る上で欠かせないのが,「医療倫理の四原則」と呼ばれる以下の枠組みです(連載第3回参照)。
1.自律性の尊重(Respect for autonomy) 医療者は患者が自己の意思で治療方針を決定できるよう,十分な情報提供を行い,その決定を尊重するべきである。
2.善行(Beneficence) 医療者は患者の利益のために行動する義務を負う。
3.無危害(Non-maleficence) 医療者は患者に危害を及ぼさないよう配慮しなければならない。
4.正義(Justice) 資源配分や医療サービスの提供は,公平かつ平等であるべきである。
幇助死をめぐる議論では,患者の「自律性の尊重」と医療者の「善行」「無危害」の間でしばしば対立が起こります。患者自身が死を選ぶことを尊重すべきだという考え方と,「死に至らしめる行為」は医療者の使命に反する,あるいは危害を及ぼす行為であるという考え方の間で,医療者は深い倫理的葛藤を抱くことになります。さらに,「正義」の観点からも制度設計を慎重に考える必要があるでしょう。
イギリスにおける法整備と社会的背景
幇助死に関する近年の議論として注目されるのが,冒頭で言及したイギリスの事例です。2024年11月29日,下院において余命6か月以内の終末期患者に幇助死を認める法案が,賛成330票・反対275票で可決されました。これは,イングランドとウェールズに住む18歳以上の成人が対象で,医師2人と高等裁判所の承認を得た上で,患者が自ら致死薬を服用することを認める内容です。
法案成立には今後,下院での最終採決や上院での審議が必要とされ,成立までには最長2年かかると見込まれています。イギリスでは,2015年にも類似の法案が提出されましたが否決されており,今回の可決は大きな転換点と言えるでしょう。また,最新の世論調査では,約7割の国民が法改正を支持しているとの報道もあり,患者の「尊厳ある最期」を求める世論の高まりが背景にあると考えられます。
しかし一方で,社会的弱者や高齢者が「家族に負担をかけたくない」という思いから,真に望まぬ形で死を選択してしまう可能性や,医療者がその判断にどこまで関与すべきかという問題は依然として残ります。今後,議会での審議と並行して,世論や専門家による議論が一層活発化することは間違いありません。
臨床現場における課題――緩和ケアと意思決定支援
患者が終末期に感じる苦痛は,身体的な痛みにとどまらず,精神的・社会的な苦痛,さらには人生の意味や価値観にかかわる深い苦悩にまで及ぶことがあります。幇助死を考慮せざるを得ないほどの苦痛があるならば,それを緩和する医療,すなわち緩和ケアをどこまで充実させられるかがまず問われます。十分な痛みのコントロールや心理的サポートがあれば,幇助死を選択せずに,尊厳をもって最期を迎えられるケースも少なくありません。
また,医療者が患者・家族と丁寧なコミュニケーションを図り,インフォームド・コンセントや事前指示書(アドバンス・ディレクティブ)を活用して意思決定を支援することも重要です。患者が自身の死生観や価値観を十分に整理した上で最適な選択を行えるよう,多職種の専門家がチームを組んでかかわる仕組みが求められます。終末期においては,「どのように生きるか」と同じくらい,「どのように死を迎えるか」が重要なテーマとなるため,医療者が果たすべき責任は非常に大きいと言えます。
倫理的ジレンマとサポート体制
幇助死に携わる医療者は,患者の苦痛を取り除くという医療の伝統的な目的と,苦痛を取り除くために患者の死を早めざるを得ないという現実との間で,倫理的ジレンマを抱えることがあります。特に,幇助死に法的根拠がある国でも,実際に手続きを進めるには複数の医師の診断や裁判所の許可など,厳格な要件を満たさなければなりません。
それでも,幇助死にかかわった医師や看護師が深刻な道徳的苦悩(モラル・ディストレス)や燃え尽き(バーンアウト)を経験する可能性は否めません。患者の苦痛を取り除きたいという純粋な思いがある一方,「自分は生命を断つ行為に加担しているのではないか」という葛藤に苛まれるからです。こうした心理的な負荷に対処するためには,カウンセリングや医療チーム全体での検討会など,医療者をサポートする仕組みが必要とされるでしょう。
多様な価値観と文化的・宗教的配慮
幇助死の問題は,宗教的信条や文化的背景によっても大きくとらえ方が異なります。「生命は神聖である」という考えはカトリック圏を中心に根強く,たとえ本人の意思であっても宗教的・文化的な背景から死を早めることに抵抗があるケースが少なくありません。一方で,個人の尊厳や自律を強く重視する文化では,死を迎えるプロセスに対しても「本人の意思決定を最優先すべき」という見方が色濃くなります。
これら多様な価値観の間で合意を形成するには,医療者が患者や家族だけでなく,宗教指導者や心理士などとも連携し,共同意思決定(Shared Decision Making)の場をつくることが欠かせません。また,異なる背景を持つ患者と対話するために,異文化コミュニケーション能力や基本的な宗教知識を習得する努力も求められます。
日本の現状と今後の課題
日本では,安楽死や自殺幇助に関する明確な法律が存在しません。そのため,過去の裁判例や学会の見解,医療者によるガイドラインなどを参考に,個別の事例ごとに判断が行われています。今後,イギリスなど海外での法整備の動向が日本にも波及する可能性もあり,幇助死の是非がより具体的に論じられることも考えられます。
その際,議論を単なる「死を早める是非」にとどめるのではなく,医療体制の充実や社会保障制度との連携など,公衆衛生や社会・文化全体の視点を踏まえた包括的な検討が望まれます。限られた医療資源のなかで,患者の苦痛緩和や尊厳の尊重をどこまで実現できるかという議論は,今後の政策・制度設計に深く影響を与えるでしょう。
幇助死の問題は,患者の自律性や尊厳,生きる苦痛への対処,そして医療者の使命や倫理観など,多くの要素が複雑に絡み合う非常に難しいテーマです。イギリスにおける法案可決のニュースは,単に一国の制度変革としてとらえられるのではなく,私たち一人ひとりに「生命の最終段階をどう扱うのか」という普遍的な問いを改めて突きつけています。
今回のPOINT
・幇助死を論じる際には,関連概念との違いを正確に理解しておくことが重要である。
・幇助死をめぐる議論では,患者の「自律性の尊重」と医療者の「善行」「無危害」の間でしばしば対立が起こるため,医療者の倫理的葛藤へのサポートが必要である。
・終末期においては,「どのように死を迎えるか」が重要なテーマとなるため,医療者が果たすべき責任は非常に大きい。
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