応用倫理学入門
[第5回] 生殖医療の倫理(2)――先端技術が拓く生殖の未来
連載 澤井努
2024.12.10 医学界新聞:第3568号より
近年,生殖医療を巡る倫理的議論の中心には,iPS細胞(人工多能性幹細胞)などを用いた体外配偶子形成(in vitro gametogenesis:IVG),ゲノム編集による胚(受精卵)の遺伝子操作,人工子宮の技術があります。これらの技術は,不妊治療を含む生殖医療の可能性を飛躍的に拡大させる一方で,「家族とは何か」「親子のつながりはどのような意味を持つのか」という根本的な問いを私たちに投げかけています。
こうした先端技術を用いた生殖は,現在,多くの国で法的に認められていません。しかし,これらの技術が実現・普及した未来では,深刻な倫理的課題が生じる可能性があります。今回は,これらの技術がもたらす潜在的な影響と課題を取り上げ,私たちがそれらにどう向き合うべきかを論じていきます。
誰もが子どもを持てる未来
2006年にマウス,2007年にヒトで,iPS細胞が開発されました。この細胞は,皮膚や血液などの体細胞に特定の遺伝子を導入して胚のような初期状態に戻したもので,体内のあらゆる細胞へ分化する能力を持っています。そのため,生殖細胞(精子・卵子)を直接作り出すことも理論的に可能であり,2010年代にはIVG技術を用いてマウスで個体を生み出すことに成功しました。
将来,IVG技術がヒトに応用されるとすれば,現在不妊に苦しむカップルに新たな選択肢を提供する画期的な技術となるでしょう。しかし,その実用化に向けては慎重な検討が必要です。特に,安全性の問題は軽視できません。例えば,IVG技術で作られた生殖細胞から生まれたマウスでは,一部の細胞に異常が見られたことが報告されています。これらの異常は健康に悪影響を及ぼす可能性があり,ヒトへの応用を進める上で解決すべき重要な課題です。
さらに,IVG技術の普及は,私たちの家族観や親子関係に根本的な変革をもたらすかもしれません。例えば,若くして卵巣がんを患った女性が, 治療前に保存した体細胞からIVG技術を用いて卵子を作り出し,治療後に子どもを出産するケースが想定されます。また,同性カップルや単身者がこの技術を利用して,遺伝的につながりのある子どもを持つことも考えられます。現在でも人工授精などの技術で同性カップルや単身者が子どもを持つ例は存在するため,生殖や家族形成の場面で科学技術を用いること自体は突飛な発想ではありません。しかし,IVG技術は生殖細胞を「作る」という点でこれまでの技術とは異なるため,社会全体の家族観や生命観に大きな変化をもたらす可能性があります。
遺伝子をデザインする未来
ゲノム編集技術は急速に進展しており,特に2020年にノーベル化学賞を受賞した「CRISPR-Cas9」の登場により,遺伝性疾患の治療や予防が現実のものとなりつつあります。この技術は,特定の遺伝子を正確に修正,削除,挿入することを可能にし,生物学や医学の分野で革命的な変化をもたらしています。
ある遺伝性疾患を持つ夫妻のケースを考えてみましょう。夫妻は,自分たちが抱える疾患が子どもに遺伝する可能性を深く憂慮しています。そのため,ゲノム編集技術を利用して,受精卵の段階で問題となる遺伝子を修正し,子どもが疾患を発症するリスクを低減することを望んでいます。このような利用が実現すれば,ゲノム編集は家族に新たな希望をもたらす有力な手段となるかもしれません。
しかし,この技術の応用は病気の治療にとどまらず,さらなる倫理的課題を生じさせます。例えば,容姿や知能といった非病理的な特性への遺伝的介入が認められるようになれば,それを受けられる人と受けられない人の間で,大きな社会的不平等が生じることが懸念されます。親が子どもの遺伝子改変を望む場合,それが「治療」と「エンハンスメント」のどちらに該当するのか,その境界をどこに引くべきかという難題が浮かび上がります。
また,こうした遺伝子改変のうち,社会的に支援すべきもの(例えば健康保険適用)と,自由診療のように支援の範囲外とすべきものの区別も必要です。この境界線が曖昧なまま技術が普及すれば,富裕層のみが遺伝子改変の恩恵を享受し,教育や就職の機会格差がさらに深刻化し,社会全体の公平性が損なわれる可能性があります。
さらに,編集された遺伝子が次世代やその子孫に予期せぬ形で影響を及ぼすリスクも無視できません。短期的には望ましい特性が得られたとしても,長期的には健康上のリスクや予期しない遺伝的影響が発生する可能性があるからです。このような不確実性が高い状況下では,技術の利用方法や条件について,社会全体で慎重な議論と合意形成が求められます。
出産の選択肢を広げる未来
人工子宮は,胎児を体外で発育させることを可能にする革新的な技術です。この技術は,不妊治療やハイリスク妊娠の解決策として期待され,従来の妊娠・出産プロセスに新たな選択肢を提供する可能性を秘めています。例えば,重度の子宮内膜症を患い自然妊娠が難しい女性にとって,人工子宮は健康リスクを回避しつつ子どもを持つ手段となります。また,キャリアを中断せずに出産を望む女性研究者にとっても,人工子宮は仕事と育児を両立するための有力な選択肢となるでしょう。
このように,人工子宮は出産に伴うリスクや制約を抱える人々に新たな希望をもたらします。一方で,この技術は妊娠や出産の意味そのものを大きく変える可能性を持っています。例えば,従来の妊娠で経験される身体的つながりがないことで,親子の愛着形成に影響が生じる可能性が懸念されます。このような心理的影響は,妊娠・出産が親と子の絆形成に果たす役割を再考する契機となるかもしれません。
さらに,人工子宮の普及は個人や家族だけでなく,社会全体にも大きな影響を及ぼす可能性があります。例えば,企業が女性社員に人工子宮の利用を推奨し,従来の妊娠・出産による休暇を制限する事態が想定されます。このような状況は,女性の身体的自律性や選択の自由を侵害し,職場環境に新たな不平等をもたらすリスクが伴うでしょう。さらに,こうした圧力が広がることで,女性の「自然な妊娠」を選ぶ権利が制約される事態も考えられます。もちろん,これは人工子宮技術そのものの問題ではなく,その「使い方」の問題ですが,人工子宮技術が普及した社会の在り方を考える上で避けられない論点です。
人工子宮技術を社会に導入するに当たっては,健康面への影響や倫理的・社会的課題を事前に十分検討し,適切な法的枠組みを整備することが不可欠です。また,人工子宮が特権階級のみに利用可能な高額な技術として普及することを防ぎ,全ての人が平等にアクセスできる仕組みを構築することが求められます。同時に,技術の利用を個人の自由に委ねながらも,その利用が他者の権利や自由を侵害しないよう,慎重に運用する必要もあります。
先端的な生殖技術が問いかけるもの
村田沙耶香さんの小説『消滅世界』(河出書房新社)に登場する実験都市「楽園(エデン)」では,人工子宮の利用によって男性も妊娠・出産が可能となり,従来の家族制度に依存しない新たな繁殖システムが描かれています。家族や生殖の価値観が根底から変容し,社会全体が新たな倫理観や人間関係の在り方を模索する姿が鮮烈に表現されています。今回取り上げた先端生殖技術が普及した未来を象徴する一例として,本作のディストピア的な視点は重要な示唆を提供していると言えるでしょう。
IVG技術,ゲノム編集,人工子宮といった先端的な技術は,希望と課題が表裏一体となっています。その可能性を最大限に生かすには,リスクを慎重に評価し,適切に管理することが不可欠です。そうしたリスクには,未来世代への直接的な影響も含まれます。例えば,成長した子どもが自らの出自を知った際の心理的影響や,遺伝的に「自分一人だけを親とする」子どもの社会的アイデンティティ形成に関する不確実性は深刻な懸念材料です。また,親が子どもの遺伝的特性を選択する行為が,子どもの自己決定権やアイデンティティにどのような影響を及ぼすかについても慎重な検討が必要です。
こうした複雑な課題に対応するためには,技術の利用に先立ち,個人の自由と社会的責任のバランスを踏まえた議論が求められます。また,リスクと利益を慎重に評価し,倫理規範を再構築したり,法規制を再整備したりすることも急務です。技術の進展を止めることは事実上できませんが,その方向性を社会全体で議論し,望ましい未来を主体的に築いていくことは可能です。技術の進歩が必然的に社会的選択と一致するわけではないことを認識しつつ,科学者,倫理学者,市民が協力して望ましい未来像を描き,その実現に向けた具体的な行動を進める必要があると言えるでしょう。
今回のPOINT
・IVG技術は,安全性への懸念があることに加えて,家族観や親子関係に根本的な変革をもたらす可能性がある。
・ゲノム編集技術は疾患治療を進歩させ得る一方で,社会的不平等を拡大させる懸念もまたある。
・人工子宮は出産に伴うリスク・制約を抱える人々に希望をもたらす一方で,妊娠や出産の意味そのものを大きく変える可能性を持つ。
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