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『記憶障害の診かた』より

連載 石原健司

2025.06.20

高次脳機能 / 神経心理学は「どうもよくわからない」と苦手意識を持つ方も少なくない領域ですが,同時に,奥深く,探求しがいのある領域であるとも言えるでしょう。『記憶障害の診かた』は,日本神経学会学術大会で開催されているハンズオンセミナー「高次脳機能の評価と解釈」の講義内容をベースに,初学者でも理解できるよう基本的な内容からスタートし,読み進めるに従って臨床場面でも応用できる内容として書籍化したものです。記憶・記憶障害のメカニズムを知りたい全ての人に役立つ一冊となっています。

「医学界新聞プラス」では,本書より「記憶の分類」「記憶障害の分類」「記憶障害を生じる脳病変部位と疾患」各章の冒頭に加えて,症例1つをピックアップし,ご紹介します。

第5章 症例検討

▶本例で学ぶポイント
脳弓(パペッツの回路の構成要素)の単独損傷により前向性健忘がみられることを理解します

先生:次の症例は,脳弓病変による前向性健忘例です。脳弓という用語はわかりますか?
生徒第1例でも出てきましたが,パペッツの回路を構成する部位で,海馬からの遠心性線維が乳頭体に到達するまでの経路,です。
先生:正解です。この症例は脳腫瘍による圧迫で脳弓が機能低下をきたした結果,前向性健忘を呈した,と考えられます。それでは症例をみていきます。

症例

 患者さんは50歳台の右利き女性で会社勤務。主訴は物忘れです。元来記憶力はよいほうでしたが,X年春頃から時々物忘れをするようになり,同年12月頃から物忘れが顕著となりました。例えば

・ガスの火をつけたまま,消すのを忘れてしまう
・勤務先でタイムカードを押したのを忘れ,何度も押して注意を受ける

などのエピソードです。

 その間,仕事上の手続き記憶(電気部品の組み立て)はまったく問題ありませんでした。X+1年2月,精査加療目的で入院しました。入院時の現症は意識清明,見当識正常であり,神経学的に異常はみられませんでした。

生徒:本人には物忘れの自覚はあったのでしょうか?
先生:周囲から物忘れの指摘を受け,受診に至っていますので,ある程度は自覚していたのでしょう。

記憶評価の結果

数唱:順唱6桁,逆唱3桁であり,即時記憶は正常でした。

前向性健忘:ウェクスラー記憶スケール改訂版(WMS-R)の一般的記憶指数は126と良好でしたが,三宅式記銘力検査は有関係対語6-9-9,無関係対語0-2-2と低下しており,またベントン視覚記銘検査では即時再生で正確数6,誤謬数5,遅延再生で正確数5,誤謬数10であり,いずれも軽度低下していました。またレイ―オステライト複雑図形の再生は16.5と低下していました。

逆向性健忘:自伝的エピソード記憶は良好に保持されていました。

 このほかに,意味記憶,手続き記憶は良好に保持されていました。

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画像所見

 頭部MRI所見です。造影剤による増強効果を示す腫瘍性病変を透明中隔部に認めました(※MRI画像は書籍でご確認ください)3)。病変は楕円形で,下端は脳弓前部を前方から圧迫,上端は脳梁幹前部の下方に存在し,周辺の海馬や視床,乳頭体には病変は及んでいませんでした。

その後の経過

 脳腫瘍の診断で手術により腫瘍を摘出。術中の所見は,脳梁幹前部から透明中隔を経て下方の脳弓まで浸潤している一塊の腫瘍が確認されました。脳弓の損傷を避けるように,透明中隔部分および脳梁に浸潤している部分の腫瘍を切除。手術後約2週間で物忘れ症状は消失し,次のように前向性記憶検査の結果も改善がみられました。

数唱:順唱8桁,逆唱4桁であり,術前よりも改善がみられました。

前向性健忘:WMS-Rの一般的記憶指数は135。三宅式記銘力検査は有関係対語10-10-10,無関係対語2-6-8,ベントン視覚記銘検査は即時再生で正確数8,誤謬数2,遅延再生で正確数5,誤謬数5であり,いずれの検査結果も改善がみられました。レイ―オステライト複雑図形の再生は19.0と健常者平均より低下していますが,術前よりは改善していました。

先生:いかがですか?

・物忘れを主訴に受診され,
・臨床経過,記憶検査で前向性健忘の存在が確認され,
・画像検査で脳弓を圧迫する腫瘍性病変が発見され,
・病変の切除によって記憶障害が改善した

という経過で,臨床的に成功事例といえるのではないでしょうか。
生徒:記憶障害が改善しているのは,脳弓病変は可逆的な変化であった,ということでしょうか?
先生:そうですね。症例1の単純ヘルペス脳炎剖検例にみられた脳弓の不可逆性な損傷と異なり,この症例では脳腫瘍による圧迫から,可逆性の機能障害が脳弓に生じ,前向性健忘の原因になっていたと考えられます。海馬や視床などの周囲組織を巻き込まず,脳弓に限局した病変形成または機能低下をきたした症例の報告は非常に少ないのですが,本例以外にも報告はあるようです。
生徒:治療の前後で標準化された検査バッテリーが施行されており,客観的な治療効果も示されている点で,非常に説得力があると感じました。

文献

3)荒木重夫,河村満,塩田純一,他:脳弓病変による純粋前向性健忘.臨床神経1994;34:1031-1035.
4)塩田純一,河村満:脳弓・脳梁膨大後域(辺縁葉後端部)病変.脳神経1995;47:443-452.

 

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<内容紹介>
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