医学界新聞

応用倫理学入門

連載 澤井 努

2025.06.10 医学界新聞:第3574号より

 現在開催中の大阪・関西万博では,最先端の医療技術を象徴する展示として,大阪大学などが開発した「動くミニ心臓」が注目されています。これは後述するiPS細胞などを体外で培養して拍動する心臓組織を再現したもので,実際の心臓と同じようにリズミカルに動く様子が公開されています。この技術が今後さらに発展し,臨床応用が進めば,心不全をはじめとする難治性疾患に苦しむ患者に新たな治療手段を提供することが期待されます。かつて「夢の技術」と呼ばれた再生医療は,このような画期的な研究の積み重ねにより,実用化に向けて着実に前進していると言えるでしょう。

 再生医療とは,損傷した細胞・組織・臓器の機能を回復させることを目的とした医療技術です。とりわけ注目されているのがiPS細胞です。体細胞に複数の遺伝子を導入して人工的に多能性を獲得させたこの細胞は,患者自身の細胞を使用することで免疫拒絶反応を抑えられると期待されています。

 2025年4月,実際にiPS細胞を用いたパーキンソン病の臨床研究が進行しているとの報道があり,根治が難しいとされてきた神経変性疾患においても,再生医療の実現性が高まっていることが示されました。以下では,Aさんの仮想事例を手がかりとして,再生医療が直面する代表的な倫理的課題について検討していきます。

30代前半のAさんは,数年前に若年性パーキンソン病を発症しました。動作緩慢や振戦などの症状が徐々に進行し,複数の薬物療法を試みても十分な改善が得られず,日常生活にも支障を来していました。そのような状況のなかで,主治医からiPS細胞を用いたパーキンソン病の臨床研究(治験)への参加を勧められます。主治医の説明によると,iPS細胞から作製したドーパミン神経細胞を脳内に移植することで,症状が大幅に改善する可能性があるようです。しかし,まだ研究段階であるため,長期的な安全性や有効性については十分な検証が行われていません。また,高額な費用や長期にわたる通院が必要になる可能性もあるとのことです。Aさんは治療への大きな期待を抱きつつも,未知のリスクに対する不安との間で揺れ動いています。

 再生医療は,細胞工学やゲノム編集技術の飛躍的な進歩を背景に,臨床応用に向けて急速に進展しており,その実用化が人類にもたらす恩恵は計り知れません。一方で,移植後に起こり得る長期的な変化を十分に追跡できる症例数は限られており,実用化に向けては,安全性と有効性を裏づけるデータが完全に揃っているとは言い切れない面もあります。例えば,体内に移植された細胞が腫瘍化して異常増殖したり,本来意図していた組織とは異なる組織に分化して臓器の機能を阻害したりするリスクがあります。また,免疫反応や炎症によって,二次的な障害が引き起こされる可能性も指摘されています。さらに,細胞の製造工程や輸送過程におけるわずかな変化が移植後の挙動に大きく影響することもあり,動物実験で安全性が確認された手法が,必ずしもヒトで同様に再現されるとは限りません。実際に,未承認の治療を海外で受ける「幹細胞ツーリズム」では,科学的に確立されていない治療による重篤な合併症が報告1)されており,安全性への懸念が抽象的な議論にとどまらないことを示しています。

 こうした現状を踏まえると,Aさんのように症状の改善を強く望む患者であっても,科学的な検証が十分でない段階で,どこまでリスクを受け入れられるかという葛藤に直面せざるを得ません。医療従事者には,前臨床試験や既存の臨床データに基づいて,期待されるベネフィットと潜在的なリスクを正確かつ分かりやすく伝え,患者自身が適切な自己決定を行えるよう支援する責務があります。また,治験段階においては,長期的な経過を観察するための患者レジストリの整備や,...

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