医学界新聞

応用倫理学入門

連載 澤井 努

2025.07.08 医学界新聞:第3575号より

 遺伝子検査や治療技術の急速な進歩に伴い,医療者だけでなく社会全体が直面する倫理的課題も多様化しています。20世紀初頭,優生学は深刻な差別を招きましたが,最新技術にも同種の危険性が潜んでいると指摘されています。本稿では,着床前診断(Preimplantation Genetic Diagnosis:PGD)と消費者向け(Direct-to-Consumer:DTC)遺伝子検査に焦点を当てます。そして,優生思想や差別の再燃といった従来からの懸念に加え,遺伝情報の商業利用や消費者主導の医療選択など,近年浮上した課題も交えながら検討します。

 PGDとは,体外受精によって得られた胚(受精卵)を子宮に戻す前に遺伝子レベルで検査し,特定の遺伝的異常の有無を調べる技術です。主に重篤な遺伝性疾患を持たない胚を選んで移植し,子どもの病気の発症を避けることを目的としています。この技術は子どもが健康であってほしいという親の切実な願いを支援する一方で,倫理的懸念も少なくありません(PGDについては連載第4回も参照)。

「命の選別」につながる懸念

 PGDが導入された当初から懸念されているのは,優生学の問題,つまりPGDが「命の選別」になってしまうのではないかという点です。遺伝子検査の結果を理由に胚を選別し,一部の胚は廃棄されます。このことが「特定の性質を持つ命を望まない」という否定的なメッセージを社会に与える可能性を生じさせます。また,PGDは国家主導の優生政策とは異なり,あくまで親の自主的選択によりますが,それでも「健常な子どもを産まなければならない」という暗黙の社会的圧力を生み,新たな差別や偏見につながる恐れがあります。宗教的・倫理的な観点からも,受精卵の段階とはいえ命(になり得る存在)を人為的に選別する行為自体に根強い反対意見があります。医療従事者も,この技術をどの範囲まで提供すべきかについて葛藤しています。

子どもの資質を親が選ぶ未来

 PGDの適用範囲が重い病気を避けるという当初の目的からさらに拡大する可能性が,近年指摘されています。将来的には,才能や容姿といった子どもの資質を選択する技術へと発展する恐れもあります。当初は厳しい条件下で限定的に認められていたとしても,一度道が開かれれば,ニーズの高まりとともに制限が緩和される可能性があります。いわゆる「滑りやすい坂道(スリッパリー・スロープ)」の問題です。実際,海外では胚のゲノム情報を利用し,それぞれの胚が持つ将来の罹患リスクや能力傾向を数値(ポリジーンスコア)で表し,望ましい胚を順位付けするサービスまで登場しています。

 しかし,大阪大学などの研究では,こうしたポリジーンスコアによる胚選別は信頼性がそもそも非常に低く,分析手法によって結果が大きく変動することが示されています1)。たとえ胚を選ぶこと自体に倫理的問題がなかったとしても,そして「生まれてくる子どもにはできるだけ幸福であってほしい」という親の願いを尊重するとしても,あまりに不確かなデータに基づいて胚を選ぶ行為がどれほど妥当なのかは,新たな倫理的懸念として生じます。PGDの適用範囲拡大は,技術的,社会的に望ましいとされる子どもの像を形成することになり,医療従事者はどこに境界線を引くべきか難しい判断を迫られています。

遺伝病保因者である夫婦の仮想事例

ある夫婦は共に重い遺伝病の保因者であり,自然妊娠では25%の確率で両親と同じ遺伝病を発症する子どもが生まれるためPGDを利用しました。胚を検査すると半数が疾患遺伝子を持っていたことから,夫婦は苦渋の思いで健康な胚のみを選びました。医師から病気のリスクをより低減する最新のスコアリング方法も勧められましたが,夫婦は病気でさえなければ十分として,これを拒否します。生まれた男児には軽度の健康問題が見つかったものの,夫婦は「授かった命はかけがえない」と前向きに子育てに取り組んでいます。

 この事例は,PGDが持つ希望と葛藤を象徴しています。医学的介入により苦痛を避ける恩恵がある一方,生命の選択を伴う行為への後ろめたさや,技術の進歩が親の悩みを複雑化させる問題を浮き彫りにしています。

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 DTC遺伝子検査とは,医療機関を介さず個人が直接申し込み,自宅で手軽に受けられる遺伝子検査サービスです。唾液などの検体を郵送するだけでDNAを解析し,罹患リスクや体質,祖先のルーツといった幅広い情報を知ることができます。日本でも数万円程度で利用できる市販キットが話題となり,世界的にも利用者が増えています。DTC遺伝子検査は「自身の遺伝的特徴を知りたい」「健康管理に役立てたい」という消費者ニーズに応える一方で,多くの倫理的・社会的課題を含んでいます。

プライバシーと差別に関する懸念

 遺伝子検査に伴う第一の倫理的問題は,プライバシーの保護と差別の防止です。遺伝情報は極めて機微性が高く,誤って取り扱われると偏見や不利益をもたらす可能性があります。例えば,保険会社や雇用主に遺伝情報が漏れた場合,「将来病気になるリスクがある」との理由で保険加入を拒否されたり,雇用差別を受けたりする懸念があります。実際に海外ではこの種の差別事例が報告されており,米国では2008年に遺伝情報差別禁止法が施行されるなど,規制の整備が進んでいます。個人が自ら希望して受けるDTC遺伝子検査であっても,情報漏洩や悪用のリスクは依然として存在します。

 DTC遺伝子検査を提供する企業の多くは,収集した遺伝情報を製薬会社など第三者に提供して収益を上げるビジネスモデルを展開しています。消費者が十分に認識しないままデータが取引されている場合もあり,企業が倒産した際の情報管理体制の不透明さも問題視されています。遺伝情報は一生涯変えることができないため,一度流出すると取り返しがつきません。生体データを含む個人情報については,EUの一般データ保護規則(GDPR)や米国カリフォルニア州の消費者プライバシー法など,各地で規制強化が進んでいますが,消費者自身による慎重なサービス選択も重要となっています。

専門的サポートの必要性

 第二の課題は,遺伝子検査の結果を適切に理解・活用する上での専門的なサポートが,DTC遺伝子検査では十分に行われない点です。検査を受ける人が結果の意味や限界を正しく理解せずに情報だけを受け取ると,誤解や心理的ショックを招く可能性があります。医療機関を通じた検査では,通常インフォームド・コンセントや遺伝カウンセリングといった形で専門家によるサポートが提供されますが,DTC遺伝子検査ではこうした専門的サポートが省略されやすいことが,専門家の間では従来警告されてきました。

 DTC遺伝子検査の結果はあくまで統計的リスクであり,非専門家にとっては正しい解釈が難しい情報です。しかし専門家の説明がないまま受け取った情報に過度に反応し,過剰な医療行動をとったり,逆に健康管理を怠ったりするケースも見られます2)。例えば,がんリスクが高いと示された結果を見て過剰な検査を繰り返す人や,逆に低リスクという結果から油断してしまう人がいます。また,深刻な疾患リスク情報を知ったことでパニックに陥り,予防的な医療措置(乳房切除など)をしなければならないと考える人もいます。このように,遺伝情報を自己判断で扱うことのリスクは高く,専門家の支援(遺伝カウンセリング等)の必要性が指摘されています。DTC遺伝子検査では,消費者が積極的に医療機関に相談しない限り,適切なサポートが得られない場合も多く,場合によっては「知らなければ良かった」と後悔するような情報を一人で抱え込んでしまうリスクもあります。

 医療従事者は患者や市民に対して最大限の利益を提供し,同時に害を最小化することが求められますが,遺伝子技術に関する判断基準はこれまで以上に複雑になっています。「親の希望にどこまで応えるべきか」「患者の自己決定権と安全性をいかに調整するか」「個人の遺伝情報をどのように保護するか」といった具体的な問題に直面する場面も増えています。

 そのため,本稿で取り上げたPGDやDTC遺伝子検査に限らず,遺伝子に関連する技術が制御を失わないよう注意しつつ,その恩恵を最大限に享受できる節度ある仕組みづくりが重要です。国や学会レベルでの明確なガイドラインや法規制の整備はもちろんのこと,現場における医療従事者によるきめ細やかなカウンセリングや啓発活動,さらに一般市民自身が遺伝子に関する知識(リテラシー)を高めることが必要です。本稿で示した仮想事例に見られる倫理的葛藤は,決して特定の人だけにかかわるものではなく,子どもを持ちたいと考える親であれば直面し得る課題です。これらの新旧の倫理的課題を真摯に受け止め,社会の対話を通じて共通の解決策を模索していくことが求められます。技術が進化する現代においては,多様な価値を考慮しつつ,未来の医療をより良い方向へと導いていく努力を続けていくことが重要です。

・PGDには,医学的介入により苦痛を避けるという恩恵がある一方,生命の選択を伴う行為への葛藤・倫理的懸念が伴う。
・DTC遺伝子検査は「自身の遺伝的特徴を知りたい」といった消費者ニーズに応える一方で,プライバシー侵害やそれに伴う差別的取り扱い,専門的サポートの欠如といった問題が伴う。


1)Nat Hum Behav. 2024[PMID:39402258]
2)Curr Genet Med Rep. 2013[PMID:24058877]

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