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[第2回]出来事中心の医療とは何か(後編)
『出来事中心の医療――患者の体験を上手に取り扱うための技法』より
連載 尾藤誠司
2026.09.09
出来事中心の医療
患者の体験を上手に取り扱うための技法
「診断も治療も正しいのに,なぜかうまくいかない」。
客観的な医学データと,患者が語る主観的な思いや生活の困りごと。その2つの世界の狭間で,どう応答すべきか立ち止まった経験を持つ医療者は少なくないのではないでしょうか。
書籍『出来事中心の医療――患者の体験を上手に取り扱うための技法』は,患者の主観を漠然とした共感・傾聴にとどめず,臨床判断の重要な根拠として扱う実践的な方法論を提示します。病気を診断名ではなく,患者の人生に起きた「出来事」として捉え直す。この視点の転換により,主観と客観の対立を超え,「情報の専門家」である医療者と「体験の専門家」である患者の真の協働が実現します。「医学界新聞プラス」では本書の中から3つの項目をピックアップし,そのエッセンスをご紹介します。
専門職責務は出来事の中から立ち現れる
従来の医療制度や専門職教育においては,職種ごとに定められた役割や責務があらかじめ制度的に設定され,それに応じた判断や行動が求められるとされてきました。いわば「責務が先にあり,それに適合する形で現場の出来事に対応する」という発想です。
しかし,出来事中心の医療が前提とするのは,まったく逆の構造です。つまり,「“出来事が先にあり,そこに応答する過程で専門職としての責務が立ち現れてくる”」という構えです。これは,職種固有の役割を否定するものではありません。むしろ,固定的な職能理解に陥ることなく,その都度の出来事が専門性の内容と境界を揺さぶり,問い返してくるという現象に開かれていることが,倫理的な専門職の実践には必要だということです。
トランプゲームでたとえるなら,「ハートの3」や「スペードの10」のカードは,それ単体で一定の役割やカードとしての強さを持っているように認識されますが,ゲームの種類によってその特性は若干変化します。さらには,ゲームが始まった時に立ち現れる各場面において,それぞれのカードは一撃必殺の効力を持ったり,逆にたいして役に立たないものになったりもします。医療者が持つ専門職としての技術や能力,さらには専門家としての責任の度合いなども,特定の臨床場面によってその特性がここに認識され,運用される,というのが,出来事中心の医療の特徴です。
このような構造は,倫理学の分野で近年注目されている「関係的責任」概念とも呼応します。すなわち,“責任とはあらかじめ制度的に規定されたものではなく,関係の中で生成し,移動し,変容するもの”だという理解です6)。医療者は,常に「責務を果たしているかどうか」を点検する以前に,「出来事に対して自分はどう応答しているか」を自問するべきです。
「困りごと」に応答する――疾患モデルを超えた視座
診療実践の多くは,いまだに「疾患モデル(disease model)」を中心に据えて構築されています。しかし,出来事中心の医療は,「疾患を持つ人」ではなく,「困りごとを抱えた人」としての患者に応答する構えをとります。「困りごと」とは,必ずしも疾患の重症度や予後の悪さと比例しません。軽微な症状であっても,社会的孤立や家族関係の緊張,職場環境の不安定さなどが複雑に絡み合い,当事者の生活を大きく揺るがしていることがあります。
糖尿病患者に対して「血糖値を下げる」ことに集中するあまり,「何を食べるか」に関する家族との関係性や,自尊心に関わる食文化の問題が見過ごされることがあります。あるいは,進行がんの患者が抱える最大の困りごとが「最期まで自宅にいたい」という願いである場合,それは延命治療の適否とはまったく異なる軸での問いかけを必要とします。
この「困りごと」への応答は,患者の語りを一義的に「医学的情報」として処理せず,それを出来事として受け取り,ともに保持する構えを意味します。
患者の出来事の中に登場する自分を演じる
医療者である私たちは,しばしば自分を「治療する主体」として,患者を「治療される客体」として位置づけてしまいます。しかし,出来事中心の医療が提案するのは,まったく異なる立ち位置です。それは,“患者が紡ぐ物語の中に登場する1人の人物として,自分自身を認識する”ことです。
患者の人生という長編小説において,医療者との出会いは1つの章,あるいは数ページにすぎないかもしれません。その物語には,家族,友人,職場の人々,過去に出会った医療者たち,そして患者自身が主人公として登場します。私たち医療者は,この物語にどのような役割で登場し,どのような台詞を語り,どのような影響を残していくのでしょうか。
ここで重要なのは,自分が演じる役割を意識的に選択し,時に調整するという「演劇的知性」です。社会的相互作用は一種の演劇であり,私たちは常に何らかの役を演じています。医療の場面でも,この演劇性から逃れることはできません。むしろ,それを意識的に活用することで,より治療的な関係を構築できるのです。
たとえば,ある場面では「わからずやの医師」を演じることが,患者にとって有益な場合があります。「どうしても薬は飲みたくない」という患者に対して,あえて「医学的には薬物療法が標準です」と“医師アタマ”7)な態度を示すことで,患者は自分の価値観をより明確に言語化し,主体的な選択の根拠を深めることができるかもしれません。これは操作的な態度ではなく,患者の物語に必要な「対立項」を提供する治療的な演出なのです。
ナラティブ・セラピーの用語でいうと,これは意図的な「ポジショニング」の実践です。常に理解ある援助者というポジションを取ることが,必ずしも患者の力を引き出すとは限りません。時には,患者が乗り越えるべき壁として機能することも,物語の展開には必要なのです。
しかし,ここには倫理的な緊張が存在します。「演じる」ことは「欺く」ことではありません。それは,治療的な意図を持って,意識的に選択された応答です。ジャズの即興演奏のように,相手の演奏を聴きながら,その場にふさわしい音を選んで奏でていく。その選択の背後には,常に「この患者の物語がより豊かに,より力強くなるために」という倫理的な指針があるべきです。
自分を“常に患者を救うヒーローとして位置づけない”ことも重要な技術です。「名医に出会って救われた」という物語は,一見美しく見えますが,それは患者の主体性を奪う危険をはらんでいます。むしろ,「いろいろな人に支えられながら,自分で道を見つけた」という物語の中で,医療者は重要だが唯一ではない登場人物の1人として記憶されることが,真の回復につながることも多いのです。
患者の物語を俯瞰しながら,その中に登場する自分をも俯瞰する―この二重の視点を持つことが,出来事中心の医療における専門性の1つだと私は考えています。
やりくりする医療――解決不可能な問題への態度
医療は長らく,「問題を解決する営み」として位置づけられてきました。しかし,現実の臨床には,診断がついても治療法が存在しない状況,どの選択肢にも重大な不利益が伴う状況,そもそも価値観や目標が定まらないまま迷いが続く状況が日常的に存在します。
解決できないことに直面した時,医療者はしばしば不全感に襲われます。しかし,出来事中心の医療がとるべき態度は,正解のない状況に耐えることでも,諦めることでもなく,「やりくりする(tinkering)」という実践的構えです8)。
「やりくり」とは,“状況に応じて柔軟に対応しながら,当事者とともに場を保ち,試行錯誤を繰り返しながら,納得可能な形を模索していく過程”です。これは,「正しい答えを出す」ことよりも,「意味ある応答を続ける」ことを重視する倫理的実践であり,しばしば医療現場で見過ごされがちなケアの持続性と創造性に支えられています9)。
参考文献
6)Walker MU:Moral Repair:Reconstructing Moral Relations After Wrongdoing. Cambridge University Press, 2006.
7)尾藤誠司(編):医師アタマ―医師と患者はなぜすれ違うのか? 医学書院,2007.
8)Mol A, et al(eds):Care in Practice:On Tinkering in Clinics, Homes and Farms. Transcript, 2010.
9)de la Bellacasa MP:Matters of Care:Speculative Ethics in More Than Human Worlds. University of Minnesota Press, 2017.
出来事中心の医療――患者の体験を上手に取り扱うための技法
診断も治療も正しいはずなのに、うまくいかない。「患者中心の医療」のその先へ
<内容紹介>診断も治療も正しいはずなのに、なぜうまくいかないのか? エビデンスやガイドライン、共感だけでは解決できない臨床の問題も、患者の体験(=出来事)を軸に考え直すことでうまくいく! 疾患ごとの出来事の公約数を手がかりに、患者の体験の聞き方・活かし方、専門家としての在り方を示します。患者と向き合うすべての医療職に向け、適切な臨床判断へとつなげるための実践書。AI時代の診療を変える一冊です。
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