看護のアジェンダ
[第249回] 狂言「川上」を観る
連載 井部 俊子
2025.10.14 医学界新聞:第3578号より
自称サマーガールの私は暑い夏が得意であった。7月になると,病棟スタッフの誰よりも早く海に行き,焼けた肌を自慢した。ぎらぎら照りつける太陽に,精神が負けるものかと仁王立ちするような感覚を持っていた。しかし,今年の夏は暑すぎて,仁王立ちするどころかへなへなとしゃがみ込むような精神になってしまった。
弱った精神に響いた「川上」の場面
そんな日常の中で見つけたのが映画のチラシだった。シネスイッチ銀座ではロードショーの案内をしていた。「94歳にして現役,人間国宝・野村万作の芸境に迫る至高のドキュメンタリー。狂言を生きる万作の過去に浮かび上がる『六つの顔』」とあった。私はへこたれている自分の精神を立ち直らせる意図を持って映画『六つの顔』(SIX FACES:KYOGEN, A LIFE ON STAGE)を観ることにした(英語の字幕あり)。
狂言師・野村万作は,2023年に文化勲章を受章した。映画『六つの顔』では受章記念公演が行われた特別な一日に寄り添いながら,万作の歩んできた軌跡と現在の姿を浮かび上がらせる。そして,ライフワークとして取り組み,磨き上げてきた夫婦愛を描く狂言「川上」を演じる。
池澤夏樹(作家)は以下のように「川上」を解説している(CINE SWITCH Vol. 398:16-7)。「シテ(野村万作)は十年ほど前に盲目になった男,日々の暮らしの不便をかこつうち,吉野川上にある金剛寺の地蔵菩薩は霊験あらたかにして参拝すれば目が開けてくださると聞く。さっそく女房にその旨を告げて寺に赴く。目の不自由な道中の難儀,おこもりで出会った人々の会話,すべてリアリズムで貫かれる。そして目は開く。ここのところ,周囲の世界が見えるようになった時の喜びの表情がすばらしい。しかし,地蔵の功徳には,今の女房との仲は悪稼だから別れることという無理な条件が付いていた。戻って目が開いたことを女房に伝えて共に喜ぶ先で,男はむずむずと離縁のことを話す。聞いた方が怒り狂うのは当然で,アド(野村萬斎)の『去れと言うことがあるものか。やい! あるものかやい!』と足を踏んでおらぶ演技がまた見どころ。男は考え,最後にこの女房に支えられる盲目の生活に戻る方を選ぶ。橋掛りをとぼとぼと歩む二人の姿を観客は,その選択は正しかったのだという共感をもって見送る」。
池澤は,「周囲の世界が見えるようになった時の喜びの表情」と,「(アドが)足を踏んでおらぶ演技が見どころ」と述べる。確かに素晴らしいと私も思うが,“弱っている”私の精神に響いたのは,冒頭の橋掛りを盲目の男が杖をついて参拝に向かう場面である。一定のリズムを奏でるように響くこつこつという杖の音が,シテの精神の統一と安定を伝えている。そして,最後に女房に支えられて,再び盲目となった男がとぼとぼと歩む姿が揺るぎない精神の強さを示しているように思われた。
万作の放つ静かなエネルギー
狂言「川上」は自身にとってどのような演目なのかとの問いに,野村万作はこう述べている。「狂言の演目は私たちの流儀(和泉流)には254曲あって,若い時に演じるものや,年を取ってからでないと演じられないものなどいろいろあります。その中で『川上』は,一応は還暦を過ぎた者でないと演じられない,ということになっています。(中略)『川上』という演目は,仏様のお告げが夫婦関係を破壊する。そういうお告げになっているところが,私はものすごいと思うんです」。「夫婦の絆の方がお告げに勝る強さがある。そういうところを『川上』を演じる上で,私は一番大事にしています」。さらにこう続ける。「600年前にできた狂言ですけれども,(中略)父の万蔵に教わった当時は,最後の場面で男が妻に引きずられるように,いかにも悲劇のように手を引っ張られて幕へ入りました。けれども,今は男と女が共に手を携えて,一緒に歩んで入っていくようにしています」。
さらに,94歳を迎えて振り返ると,「野村万作という男は絶えず新たな狂言の世界を握ってきた,そういう生き方をしてきたような気がします。(中略)私としては単なる笑いではなく,笑いを超えた劇としての狂言の存在意義というものを一生懸命探ってきました。『ややあって また見る月の 高さかな』という父の句でいうと,それがどの程度の『また見る月の高さ』かは分かりませんが,まだまだ上の方に月があるような気がしているのです」と語る。(CINE SWITCH Vol. 398:4-5)
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94歳,狂言「川上」を演じる野村万作の放つ静かなエネルギーに私は魅了された。
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