医学界新聞

看護のアジェンダ

連載 井部 俊子

2021.10.25 週刊医学界新聞(看護号):第3442号より

 第25回日本看護管理学会学術集会(学術集会長=横浜市立大学・叶谷由佳氏)が2021年8月28~29日,パシフィコ横浜ノースで開催された。新型コロナウイルスの感染拡大を受けて大半の学術集会がオンラインで行われるなか,この学会はいわゆる“ハイブリッド”で開催するという案内が届いたので,私は迷わず現地に行くことに決めた。

 パシフィコ横浜ノースは新しい建物であった。広い会場に対して出席者は少なく,十分なソーシャルディスタンスを確保する結果となった。懐かしい仲間との再会は,これまで厭世的であった私の精神にいくばくかの活力を注入してくれたように思う。

 今回の私の任務は,シンポジウム「看護の本質と管理」(座長=横浜市立大学・勝山貴美子氏,聖隷クリストファー大学・鶴田惠子氏)のシンポジストとしての参加であった。シンポジストとしての私の発表テーマを,「看護の本質への回帰」と定めた。以来私は,「看護の本質とは何か」を考え続けることになったのである。

 『新型コロナウイルス ナースたちの現場レポート』(日本看護協会出版会編)の記述に,そのヒントがあった。本書で,看護師長の山田眞佐美さん(大阪国際がんセンター)は,「COVID-19により世界は一変した。変わらないのは,人が人に寄り添いケアをする姿である。コロナウイルスの由来となった“太陽コロナ”が日食で陰った太陽の暗闇周囲を明るく輝かせているように,看護師の働く姿は本当に美しく輝き,笑顔は患者さんの希望の光となっている」と称えている。さらに続けて,「2020年は人類の歴史に残る年となる。私たちが今,まさに実践している看護こそが,歴史として後世に語り継がれるのである」と結んでいる。

 「私たちが今,まさに実践している看護」こそが,私の考え続けている「看護の本質」ではないか。新型コロナウイルス感染症によって隔離され,人との接触を厳格に制限される中でも看護師は患者に近付き,寄り添うことをやめない。隔離と断絶のなかで孤独と不安に陥っている人々の「希望の光」として存在し続ける。このことこそが看護の本質ではないか,という思いに至った。

 トラベルビーは『人間対人間の看護』(長谷川浩・藤枝知子訳,医学書院)のなかで次のように述べる。「病むことは,孤独であるということであり,自分の孤独の中核にあるものを和らげられないこと,あるいは,ほかの人に伝えることさえできないことである」と。したがって,「ケアは病む人と共にある営みであって,治すことを試みることでは必ずしもない。むしろコミュニケーションを絶やさない努力だ。治療がもはや効力を持たなくなった場面においても,ケアのコミュニケーションは続く」のである(村上靖彦著『ケアとは何か』,中公新書)。

 つまり,われわれが大切にしている「寄り添う」という行為は,物理的に常に寄り添うことはできず,コミュニケーションによって実現できることになる。コミュニケーションの中核となる「言葉」に注目しなければならない。「何かありましたら呼んでください」という言葉では,孤独の解消にはならないのである。

 平木典子氏は,人間関係を形成し維持するためのアサーションとして,あいさつをする,自己紹介をする,相手の名前を呼ぶ,質問をする,自分の意見を言う,話をする等を挙げている(『三訂版アサーション・トレーニング――さわやかな<自己表現>のために』,日本・精神技術研究所)。コロナ病棟で防護服を着けた状況でも,あいさつをして名乗り,相手の名前を呼んで「体調はいかがですか」と質問をする等は,ベッドサイドナーシングの基本でありルーティンである。

 さらに私は,「話をする」ことについて取り上げたい。

 「私,雨が好きなの」と語った看護師Mさんの言葉を,自殺未遂で運ばれた病室で聞いた「私」の作品を紹介したことがある(本紙第2934号,連載第78回「看護という現象」)。雨が好きな理由を「私」が問うと,「今日は休んでいいんだよ。頑張らなくていい日だよ,って言ってくれているみたいで(後略)」と看護師Mは優しく笑って窓の外を見て,点滴の確認をすると,「私」のベッドから自然に離れていった。ほかの看護師は「腫れ物に触るような感じ」で事務的なこと以外は話をしない中,Mは半ばひとり言のように話し始めたのだった。その雰囲気はとても穏やかで,「傷つき疲れ果てた私の心に黙って 寄り添ってくれるよう」だった(傍点は筆者)。

 この作品は,日本看護協会「忘れられない看護エピソード」集(2011年)に収載されている。「雨の日」の自分の気持ちを患者に語るというこのエピソードには,コミュニケーションに関するいくつかのヒントがある。

 一つ目は,その日の天候や季節を話題にしていることである(思想信条ではない)。二つ目は,自身の気持ちを率直に披瀝していることである(患者は気負わずに相手の世界に入っていける)。三つ目は,さりげなく短時間に語り,その場を去っていることである(相手への負担が最小限であるが余韻を残している)。看護師Mの「私,雨が好きなの」は,患者の孤独を和らげ,生きる希望につながっていることが描写される。看護部長の大松真弓さん(産業医科大学病院)から最近届いた電子メールに,「患者を日常に戻す声掛け」という表現があった。これは,「私,雨が好きなの」というエピソードにぴったりの表現であると思った。

 看護の本質とは,「孤独からの回避」であり「病者を置き去りにせず寄り添うこと」である。こう考えると療養上の世話も診療の補助も,そのための手段であると言える。

 「今日は中秋の名月で,お月さまが輝いていました」「お彼岸を過ぎて急に肌寒くなりました」「道端でシオカラトンボをみかけました」など,今の季節ならではの話題がある(いずれも私の経験である)。命名されない「日常の会話」や「雑談」,「世間話」こそ最も値打ちのある行為であることを,再認識したいものである。

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