多様化する医師のキャリアプラン
対談・座談会 後藤 匡啓,三澤 園子,矢吹 拓,鎌形 博展
2025.06.10 医学界新聞:第3574号より

医療機関の経営危機が相次いで取り沙汰される中,将来を案じる若手医師の声が日に日に増している。これからの医師はどのような未来をたどることになるのだろうか。本座談会では,大学病院・市中病院・開業・企業への就職など,さまざまな医師のキャリアパスを紹介しつつ,苦悩や葛藤を抱えながら自ら道を切り拓いてきた医師たちのリアルを紹介したい。彼らの等身大の言葉から,あなたらしい未来を築くヒントが見つかるはずだ。
後藤 ここに集まっている先生方は,各分野で活躍され,結果を残してきた,ある意味「尖った」医師たちです。しかし,一見すると輝かしいキャリアを歩んでいる人でも,時に悩み,苦しみながらキャリアを選択してきた過去があると思います。本座談会では,さまざまな経験を積んだ医師たちの等身大の姿をまずは共有し,これからの医師のキャリアについてお話しできればと思います。まずは皆さまのキャリアについて紹介していただけますか。
「尖った」人たちのキャリア選択の裏側をのぞいて見る
◆大学病院:三澤先生の場合

三澤 園子(みさわ・そのこ) 東京科学大学脳神経病態学分野 教授
1999年千葉大卒。関連病院にて研修後,千葉大大学院医学研究院神経内科学教室の助教に就任し,17年に准教授就任。医局長を計5年間務める。25年より現職。13年女性医師支援のために「立葵の会」を設立,18年には医師がリーダーシップやマネジメントを学べる場「育星塾」の発起人に。22年慶大大学院健康マネジメント研究科修士課程修了。09年に第1子,15年に第2子を出産する。
三澤 医学部を卒業し研修を修了した後は,「周りの医師たちが大学院に行くから」という受け身の理由で進学を決めました。変化があったのは大学院を修了した2006年です。当時はアカデミアに女性医師がほとんどおらず,出産後に医局を離れてしまう方も少なくありませんでしたが,指導教員から「もう少し研究を続けてみないか」と声をかけられ,大学に残り研究を継続することにしました。そこからは,POEMS症候群やギラン・バレー症候群などの医師主導治験に携わる傍ら,女性医師が働き続けられるように環境の改善をめざす活動や若手のキャリアサポートなども続けてきました。
後藤 ロールモデルとなる方が少なく大変だったのではないでしょうか。
三澤 所属していた医局では教員を務めながら出産した医師はいなかったため,暗中模索の日々でしたね。周りも私のことをどう扱って良いのかわからなかったと思います。
矢吹 キャリア形成には,明確なゴールは持たず川の流れに身を任せるように目の前の状況にうまく対処しながら進んでいく川下り型と,明確なゴールを定めてそこに向かって一歩一歩進んでいく山登り型があると聞きます1)。三澤先生の生き方は後者のタイプに私には見えました。
三澤 以前読んだ書籍『7つの習慣』で提唱されていた「習慣2 終わりを思い描くことから始める」を参考に,最終目標を明確に定め,そこから逆算して行動することを意識してきました。このように考えるようになったのは医師主導治験を経験してからです。ゴールにたどり着けず目標を修正しなくてはいけないこともありますが,少しでもよい着地点へ近づけるよう常に思考を巡らせることを心がけています。
◆市中病院:矢吹先生の場合

矢吹 拓(やぶき・たく) 栃木医療センター内科 部長
2004年群馬大卒。前橋赤十字病院にて初期臨床研修修了後,東京医療センター総合内科の後期研修を経て,11年より栃木医療センター。25年より現職。同センターではジェネラリストが中心となった幅広い内科診療を実践している。家庭医療専門医,総合内科専門医。
矢吹 医学部を卒業したのは初期臨床研修が必須化された2004年です。実はその影響をかなり受けています。学生時代から漠然と小児科医をめざしていたものの,臨床研修の必須化によってストレートには小児科に進めないことがわかったのです。ローテーション研修によって複数の診療科を見て回ることになったのですが,さまざまな疾患を診るうちに,「将来小児科医になったら診なくなる疾患が半分くらいあるな」と,ふと思ったのです。ある程度一般的な疾患は診療できる医師になりたいとの考えが根底にあったため,小児科医ではなく総合診療・総合内科医という道を選択しました。
もう1つの岐路は後期研修の修了時です。研修先に残って後進を育てるべきか,別の市中病院に移ってステップアップするべきか悩みました。
後藤 大学に進む選択肢はなかったのですか。
矢吹 アカデミックキャリアを積み上げるより,できるだけプライマリに近い環境で仕事がしたいと考えていたために,その選択肢はありませんでした。後期研修中に国立病院機構同士のつながりから栃木医療センターに診療スタッフとして3か月派遣されることがありました。実際赴任してみると,都心部での診療と,専門医数の少ない地方での診療スタイルの違いに気づき,地方での診療にやりがいを感じたのです。キャリアの先行きは何も見えていませんでしたが,それまで学んできた総合内科の知識がどこまで生かせるのかとワクワクする気持ちもあり,散々悩んだ末に飛び込んでみようと決意を固めました。それが現在の職場です。
後藤 最後に進路選択の背中を押したものは何でしょうか。
矢吹 その地域,その病院に「必要とされている」と感じたことが大きかったです。内科医が数人しかいない状況で大変な思いをしながら医療を提供しているスタッフの姿を目の当たりにし,地方の医療ニーズに応えるのが自身の役割だと思いました。
後藤 かれこれ15年近く同じ病院に勤めていらっしゃいます。市中病院に勤める方の中ではめずらしいタイプのように感じました。
矢吹 確かに長いですね。けれども,ずっと同じことをしているわけではなく,時期によってコミットする内容が変わっています。最初の5年はがむしゃらに臨床をしていた時期で,臨床の幅を広げることを意識していました。いま振り返ると相当ハードな日々でしたが,その経験が自分の血となり肉となっていることに気づかされます。その後は専攻医教育に携わったり,研修プログラムの策定に携わったりする時期があり,現在はその活動が軌道に乗ったことで当科は30人を超える大所帯になりました。私の業務もマネジメント業にシフトしつつあります。ただ,個人的には現場で働きたいタイプですので,プレイヤーとマネジャーの仕事の割合をどう配分するかには悩んでいます。私自身が実践してしまうと,後進の成長を阻んでしまう恐れもあり,ジレンマの日々です。
◆開業・ビジネス:鎌形先生の場合

鎌形 博展(かまがた・ひろのぶ) 医療法人社団季邦会 理事長
2003年明治薬科大を卒業後,MRとして製薬企業に入社する。その後,北里大医学部に編入し,調剤薬局等で勤務しながら11年に卒業。都立多摩総合医療センター,東京医大病院救命救急センターに勤務。17年慶大大学院にてMBAを取得。大学発ベンチャーの立上げを経て,19年に街のクリニック立川・村山を開業,20年より現職。5院を経営。23年には株式会社ENを起業。
鎌形 私は薬学部を卒業した後,MRとなりました。キャリアチェンジは社会人3年目の25歳の時です。2人の同僚が病いによって相次いで亡くなりました。いつ死に直面するかわからない現実を垣間見て真剣に生きなければならないと思い直し,世の中の役に立つこと,やりたいと思ったことに挑戦しようと決意して医学部に編入したのです。もともとバイオ医薬品を取り扱う製薬会社に在籍していたため,がん治療に携わりたいとの気持ちがあったものの,私も矢吹先生同様,研修中にさまざまな診療科を経験するうちに救急領域に関心を持つようになり,東京医科大学の救命救急センターに入職しました。
業務の一環でDMATや国際緊急援助隊にも参加していたのですが,次第に防災や災害に対するレジリエンスなどの研究にも携わるようになり,最終的には医療政策や病院経営などにも関心領域が広がって,MBAを取得するに至りました。その後は認知症リスクの早期診断AIを開発する企業の立ち上げや,医療機器の開発プロジェクトに携わり,現在は開業医をする傍ら医師×医療機関のマッチングプラットフォームを立ち上げたり,社会的にインパクトを与えるような技術開発(ディープテック)の事業にも関心を向けたりしています。
後藤 臨床とビジネスの比重はどのように考えていますか。
鎌形 現在は週に一度しか臨床に出られていないものの,臨床が好きで,完全に手放したくないとの思いがあります。その一方で,医療法人の経営者として「良い医療を提供する組織にしたい」「成果を挙げたい」との思いもあります。自分自身,経営者,医師としてはそこそこのレベルです。各分野で見れば自分よりも優れている人はたくさんいます。ですが,臨床や経営,または政策まである程度理解している人はそこまで多くありません。そうした立ち位置で,自分だからこそできることを世の中に発信したいと日々考えています。
◆スタートアップ・企業:後藤先生の場合

後藤 匡啓(ごとう・ただひろ) 横浜市立大学学術院医学群データサイエンス研究科 教授
2008年福井大卒。同大病院で臨床研修修了。亀田総合病院,千里救命センターなどで臨床業務に従事し救急科専門医を取得。15年に渡米し,ハーバード大公衆衛生大学院修士課程に進学すると同時にマサチューセッツ総合病院救急部で臨床研究に携わる。東大大学院での研究員を経て,20年にTXP Medicalに入社しChief Scientific Officerに就任する。25年より現職。
後藤 私はER型救急医として臨床経験を積んできました。研究に関しては,論文に名前が掲載されるのがカッコいいなという俗物的な理由で臨床研究に関心を持っていたところ,メンターであった長谷川耕平先生(現・米ハーバード大学医学部教授)から「臨床研究を本気でやるならアメリカに来ないか」と誘われ渡米をしました。けれども周りは優秀な研究者ばかりで英語も通じず全然駄目でしたね。特に最初の一年は研究も成果が出ず,心が折れそうな日々でした。さらに困ったのは帰国後の身の振り方です。勢いで渡米したので,いつ,どこに帰るか。医局派遣で留学していれば帰国後のポストはある程度保証されているものの,私は医局を辞めて留学したので,臨床に復帰するか,研究を続けるかで道に迷いました。結局は福井大学・東京大学の研究員として帰国しましたが,モラトリアムのような感情を抱いていました。
鎌形 その後,企業に就職されたのですよね。
後藤 ええ。京都大学のポストが内定していたのですが,就任3か月前にその話が白紙となり困っていたところ,声を掛けていただいた救急領域の医療データを取り扱うTXP Medical社に就職することになりました。専門分野が一致しており,データを生み出すビジネスと研究がハマれば面白いだろうと考えたからです。しかしながら当時はまだ,医師の企業への就職に対してネガティブなとらえられ方をされることも多かったです。私自身もどこか割り切れないところがあり,就職してからしばらくは「TXP Medicalの社員です」とは胸を張って言えない自分がいました。幸い研究に対して情熱的だった社長と,優秀な仲間に恵まれ結果を出すことができました。ただ,研究と教育を続けるにはアカデミアのほうが良いと考え,現在のポジションにつながっています。
キャリアの転換点としての40代
後藤 まさに四者四様ですね。各先生のキャリアを聞いて気になったことはありますか。
鎌形 先生方はキャリアにおける年齢の問題をどうとらえているのでしょう。ここまで話してきたように,私は変わったキャリアを歩んできたこともあってか,海外のファンドや製薬企業を含めて多くの企業から転職の誘いをもらっていたのですが,この数年でそうした話がパッタリ無くなりました。これまで歩んできた自分の生き方自体に全く後悔はないものの,年齢的な問題が大きく関係しているのだろうと少し寂しさを覚えます。
後藤 私は40歳を超えてから体力が落ち,若い頃のように物事に集中できなくなることが増えました。今からキャリアを大きく転換するのは難しいという感じはします。
矢吹 私も40歳が1つの節目でしたね。「四十にして惑わず」という言葉もありますが,キャリアだけでなく,スキルや知識の面でも一通り経験を積み,管理職的な立場にもなりましたので,転換点として意識をしました。その上で,キャリアの終わりを意識し始める時期でもあります。65歳定年という考え方は薄れつつあるものの,医師のキャリアが24歳で始まったと仮定すると,現在45歳の私はちょうど中間地点です。他の人のキャリアを見て,「これで良かったのだろうか」「もっとできたのではないか」といった虚無感に襲われ,気持ちの整理が必要になることもあります。
後藤 鎌形先生はアクティブに挑戦する日々を送っている印象を持っていますが,終わりを意識することはあるのでしょうか。
鎌形 個人的にはあと5年から10年でビジネスマンとしては一区切りをつけたいと思っています。その後は後進の育成,支援に携わりたいです。学校教育にも興味があります。
三澤 私もキャリアの終わりを意識する年齢になってきました。この歳で新しいことに挑戦できるのか?との気持ちも芽生える中で,新しい職場に,教授として移ることになりました。気持ちを新たに頑張らなければと思っています。伊能忠敬が50歳を過ぎてから日本地図を作り始めたという話を教えてくれた方がおり,それが今の心の支えです。
医局制度はキャリア形成にとって本当に悪なのか
三澤 医師のキャリアを考える上で,医局の問題を避けては通れません。私の持論としては,人材育成のために,そして地域医療を守るために医局の存在は今でもやはり重要だととらえています。一方で,人材の流動性を阻害している面もあり,進化すべき点もあるように感じています。皆さんには,医局はどう見えていますか。
鎌形 とりわけSNS上では医局に対して悪いイメージが先行しがちですが,私自身はあまり悪いイメージを持っていません。というのも,私は東京医科大学救急・災害医学分野の医局に現在も在籍しています。歴史が浅いこともあり,来るもの拒まず,去るもの追わずという環境で,居心地の良さにつながっています。独特なキャリアを歩む私の存在が後輩の刺激になると教授も言ってくれているので,若手の先生にも積極的にアドバイスを送るようにしています。
三澤 なるほど。ちょっと意外でした。
矢吹 市中病院である当院の内科は医局派遣がほぼありません。ですので,個々人の人生設計によって在籍者が容易に変わってしまいます。長期的な視点で体制を検討することが難しいのです。そうした意味では,若手が定期的に循環し,成長して,大学に戻る,あるいは地域に出ていくシステムが構築されている医局の意義を感じます。けれども若手の働き方が多様化し,医局が人材を安定的に供給しにくい時代になりました。また,いわゆるメジャー科に進む若手医師は減少傾向で,地域医療を担う医師数自体が減っているのは大きな問題であり,医局の未来を案じてもいます。
後藤 昨今は自身のQOLを重視する方が特に増えており,地域に派遣されることや働き方,収入面にネガティブな感情を抱く若手も多いです。一方で,医局に所属せず,キャリアを自身で切り拓いていくことにはかなりの労力を要します。「こうしたら良いよ」と,ある程度キャリアのレールを敷いてくれる医局の存在はありがたい側面もあると思うのですが。
鎌形 医師キャリアの基本路線として医局は良い組織だと思っています。臨床・研究・教育の面でロールモデルとなり得る先輩もいますし,自身の適性や興味をじっくり見極めるという点でも有用でしょう。しかし地域偏在の課題を解消させるための機能を医局に求めていることが,医局という組織に負のイメージを持たせる源泉になっています。
三澤 人事面の役割を医局から切り離せるのであれば,こんなに楽なことはないです。医局人事の大変さは身に染みてよくわかります。しかし,特定機能病院の要件の1つに医師派遣の取り組みを評価することが現在議論2)されているように,国の方針としては医師の偏在対策を医局に求めようとしている状況です。
後藤 医局に対する逆風が明らかな中で,三澤先生はなぜ教授をめざしたのでしょうか。
三澤 仕組みを変える側になりたかったからです。これまで20年以上アカデミアで働き,仕事と育児を両立しながら,余裕のない日々を過ごしてきました。でも,こうした働き方を今の若手医師たちはもはや望んでいません。重厚長大を良しとしてきた従来の業務の在り方や仕組みを見直し,効率化していくことが急務だと感じています。日本の医学・医療が今後も持続可能であるよう,時代に合った進化をする必要があります。教授という立場を生かして,その変革に取り組んでいきたいです。
起業/就職という選択肢
後藤 以前は製薬企業をはじめとした一般企業に医師が進むことに否定的な印象を持つ方が多かったものの,今はその認識も改められつつあります。
三澤 若手の中で企業への就職は先進的なキャリアととらえる方も増えていますよね。
後藤 はい。しかしながら,競争が激しくなっていますし,収入面だけで言えば,臨床医として勤務するほうが稼げるかもしれません。もちろん,やりがいがあって,チャレンジしたいのであれば問題ないでしょう。ですが実際は,「こういうことをやりたかったわけじゃない」とギャップを感じて臨床に戻る人も少なからず存在し,もう少し事前にリサーチすべきだったのではと思うこともしばしばです。
鎌形 医師免許取得後,研修をせずにそのまま起業や就職をする方も増加傾向にあります。後藤先生にはどう見えているのでしょう。
後藤 起業やスタートアップ企業への就職は選択肢の1つではあると思います。ただし,生存バイアスの世界であることを忘れてはなりませんし,起業するのとスタートアップに就職するのは全く別です。
鎌形 インターンを希望する医学生も増えていますよね。特に都市部の医学生を見ていると,意識が大きく変わっている印象です。
後藤 医療DXといった医療現場以外で医師が社会貢献できることに気がついて,興味を持つ人が増えているのでしょう。医療業界全体の停滞感も相まって,「新しいことを始めなければ」と切迫感を抱いているようにも見えます。
鎌形 やりたいことが明確なら,すぐに起業すれば良いと思います。けれども何となくかっこいいかもという雰囲気や,現状からの逃避で起業や転職をするのは止めておいたほうが無難でしょう。
後藤 医学生や若手医師から起業したいと相談を受けることもあるのではないですか。
鎌形 ええ。そうした方々には専門医資格の取得の推奨や,開業医や勤務医としてある程度収入を維持しながら,自分の事業アイデアの検証を進めるべきだとアドバイスしています。大事なことは,特に起業前後には経済的な守りを固めながら戦うことです。
後藤 同感です。今後どうなるかわかりませんが,起業を支援する大学も現れてきました。ただ起業自体は,臨床医でなくてもできることです。臨床医だからこそのニーズを見つけて起業するほうが成功しやすいですし,面白いのではないかと感じています。もちろん,そうでなくても大成功するスタートアップはありますが,それはごく一部で, 一般的な医師の感覚を持っていると逆に厳しいかもしれません。
どんな未来が訪れても生き残れる実力を
後藤 これからの医学・医療の未来を担う若手に,最後に伝えたいことはあるでしょうか。
矢吹 エールを送りたいのは現時点で進路に迷っている方です。目標が明確で自分の道を突き進んでいる人がキラキラして見えたり,羨ましく感じたり,影響を受けたりすることもあるでしょう。私自身もそのタイプの医師でしたので,痛いほど気持ちがわかります。そうした方々には,「自分探すな,職探せ」という,恩師である尾藤誠司先生(野村病院)の言葉を贈りたいです。「自分のやりたいことは何だろう」「本当に合うものは何だろう」と自分探しを始めても混迷を極めてしまいます。そういう時は,とりあえず目の前のことに真摯に取り組み,その中でやりたいことを見いだせばいいのです。
鎌形 「箱から飛び出してもいいんだよ」と伝えたいです。分野の枠組みを飛び越えるのに,臆病になる必要はありません。日本から飛び出すという選択肢もあります。あまり枠組みにとらわれずチャレンジしてください。
三澤 保険診療は現状のままではいずれ限界を迎えるでしょう。一方で「ヘルスケア」という視点でとらえれば,その可能性は無限です。この広大な領域で活躍する上で,医師としての知識や資格は強力な武器になります。どんな未来が訪れても生き残れる実力を身につけ選択肢を広げておくことが,今の若手にとっては重要です。アカデミアは,そのための準備や土台づくりに適した環境です。未来がどう変わろうとも,人が健やかに幸せに生きたいと願う気持ちはなくなりません。つまり私たち医師へのニーズは必ずあります。私の医局では,そうした未来に備えたキャリアサポートができればと考えています。
後藤 自分が楽しいと思うこと,やりがいのあることを大切にしてほしいです。その軸を失うと,「自分の人生は何だったのだろう」という後悔につながります。そして医師免許を取得したからには,医師にしかできない臨床に一度は真摯に取り組み,できるならば専門医を取得するステップを踏んでほしいと思います。臨床を離れた今,余計にそう感じます。その先の人生は,自分の興味のある分野に進めば良いですし,時には,なるようにしかならないと割り切ることも大切でしょう。将来の医学・医療の未来を担う皆さんを応援しています。
(了)
参考文献・URL
1)大久保幸夫.日本型キャリアデザインの方法.経団連事業サービス;2012.
2)厚労省.特定機能病院及び地域医療支援病院のあり方に関する検討会.
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