“スペシャリスト”再考――ハードルの低い“スペシャル”(岩田健太郎)
連載
2017.06.05
The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言
「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,“ジェネシャリスト”という新概念を提唱する。
【第48回】
“スペシャリスト”再考――ハードルの低い“スペシャル”
岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)
(前回からつづく)
第47回(第3224号)では,「ジェネラリストは,実はスペシャリストだ」という話をした。今回は,「(自称)スペシャリストは,そんなにスペシャルじゃない」という話をする。
ぼくはいわゆる感染症屋だが,特に古いタイプのドクターからは「で,専門はどのウイルスですか?」みたいな質問を受ける。微生物学者と感染症屋の区別がついていないからだ。ま,それはよいとして,ぼくが「ある特定の微生物」というエッジの利いた専門家でないのは明らかだ(感染症にも特定のエッジの利いた専門家がいるものだ。例えば結核菌とか,マラリア原虫とか。あるいは抗菌薬のPK/PDとか,アウトブレイクの数理モデルとか。他にも特定のβラクタマーゼなど)。
そういう意味で,ぼくは“ジェネラルな”感染症屋だと言えなくはない。では,ぼくはジェネラリストか? スペシャリストか?
*
これは感染症の世界に限らない。心エコーのスーパープロ,心臓カテーテルのスーパープロ,心臓電気生理学的検査(EPS)のスーパープロたちにとって,いわゆる循環器内科医は“ジェネラルな”カーディオロジストだ。多発性硬化症のプロにとって普通の神経内科医は“ジェネラルな”ニューロロジストだ。
ぼくみたいに普段から肺炎を治療したり,HIV感染者を外来で診たりする,あるいは彼らの身体障害者手帳の不備を嘆いて改定を訴えたり,内視鏡の消毒薬を決めたり,インフルエンザの症候と診断の関係を構造主義的に吟味したり,感染症への恐怖から来る身体化症状と取っ組み合ったり,エボラの隔離テントを設営したりする感染症屋は極め付きにジェネラルな存在なのである。
*
「なんだ,お前の言っている“ジェネラル”とは感染症という文脈に沿ったものにすぎないじゃないか」と言う御仁がいるとすれば,前回の文章を読んでほしい。それはそのまま,ブーメランになって「なんだ,お前の言っている“ジェネラル”とは医療という文脈に……」と返ってくるのである。
世界で誰も取り組んでいないような問題に挑むスーパーにエッジの利いたスペシャリストこそが,スペシャリストの称号にふさわしい。われわれはいろんなことをやる「ジェネラリスト」なのである。
日本は大学の組織構造がいい加減だから,教授になればいろいろと自分の専門の範疇にないことまでアレヤコレヤやらされるのであり,ジェネラルな方向は先鋭化される。ぼくは神戸大で「病院での地下水の活用に関するプロジェクト」を任されたとき,「んなこと俺にできるか」と思った。このような無茶振りでジェネラルなアクティビティを強いるのが,(美しい国日本の,グローバルに活躍し,女性が輝いているらしいが,教授会には女性は片手で数えるほどの)国立大の現状だ。
*
とはいえ,世界の誰もが取り組んでいないような問題と取っ組み合うようなスーパー特化した人材は使いにくいのもまた事実である。その人物はエッジの利いた一つの領域でしか役立たないからだ。そういう人物がいてはいけないかというと,もちろん,いてもよい。でもそんなにたくさんは要らない。大多数の人たちは“スペシャリスト”じゃなくてもよいのである。
やはり,組織はほとんどが“ジェネシャリ”から構成されているほうがうまくいく。サッカーで言えば,守備も攻撃もでき,右サイドも左サイドも任せられる人物がたくさんいる組織のほうがアクシデントに強く,恒常性に優れている。「右45度からのシュート」だけが抜群に優れているようなダイナソーなストライカーは,チームに一人いれば十分過ぎる。
*
それはそれとして,日本のスペシャリストがあまりスペシャルでない要因の一つは,何といっても専門医制度の不備にある。専門医の資格が,その専門性を担保していない。能力の証となっていない。
総合内科専門医は日本内科学会にカネを貢ぎ,学会参加のスタンプラリーを行脚し,ちょっとした症例まとめとちょっとしたペーパー試験でクリアできる資格である。そうした専門医資格を持ったドクターが「内科当直には入れない。自分は胸痛患者とか,息切れとかには対応できない」とそっぽを向く。大学病院にいると,日本の専門医はなんと臨床力が低いものかと嘆息するのである。大学病院主体の日本のシステムと,学会主体の専門医制度の不備からくる低レベルである。
日本専門医機構によって専門医制度改革ができると喜んだのはつかの間であり,結局専門医機構も,学会と懇ろになって現状路線を踏襲することしか考えていない。情けない限りである。
*
そんなわけで,日本のスペシャリストは実はスペシャリストではない。“ジェネラルなスペシャリスト”であり,多くはスペシャルなものを持たない,ぼんやりしたスペシャリストだ。制度的に,構造的にそうなのだ。彼らにジェネラリストを軽蔑する資格はない。彼らはまっとうなジェネラリストにすらなれない実に中途半端な存在だからである。
ぼくはすべての医師が“ジェネシャリ”になれば,日本の医療の諸問題の多くは解決すると思っているが,ジェネシャリの前提は,きちんとした専門性である。軸がしっかりとしていてこそ,その周辺の「ジェネラル」がどのくらいジェネラルであるか,相対的に吟味,判断できるからだ。
スペシャルな部分のハードルは下げてはならない。「何となく臨床ができる」的な昭和な価値観を許容してはならない。卒前教育のグローバル化が大きく論じられる昨今,卒後教育,専門医教育は国際的には数周遅れである事実を直視しなければならない。
(つづく)
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