医学界新聞

連載

2017.05.22



The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,“ジェネシャリスト”という新概念を提唱する。

【第47回】
“ジェネラリスト”再考――実は“医療のスペシャリスト”

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 以前,ジェネラリストはスペシャリストに対するルサンチマンを抱きがちだという指摘をした(第9回/第3068号)。換言するならば,自分たちの「ジェネラリスト」という立場,つまり“城”に身を置き,そうでないスペシャリストたちを罵倒するのである。

 しかし,ぼくは思う。医療・医学の世界で言われている「ジェネラリスト」は実際には“スペシャリスト”であると。

 総合診療医,総合内科医,かかりつけ医,家庭医,あと何だっけ……。ジェネラリストを指す呼称は多い。呼称にまつわる議論も多い。しかし,ぼくは個人的には「私をどう呼ぶべきか」的な議論に全く興味がない。どうでもよい話だと思う。大事なのは,「私がどうあるべきか」であり,「私がどう呼ばれるべきか」ではないのだから。ぼくのことを「タンタンタヌキノキンタマ」とか「ジュゲムジュゲムゴコウノスリキレ」と呼びたければ,まあそう呼んでいただいても構わない。ぼくが何者であるかを認識してくれさえすれば(されてないだろうけど。この場合は)。

 この「呼称問題」はインサイダーにとってはかなり重要な問題であることが,彼らの発言からは察せられる。しかし,外部から見ると,そういうのは「どうでもよい話」なのである。医療界がタコツボになりやすい訳である。

 日本のジェネラリスト集団も,結局はそういう「仲間内の論理」に入り込み,閉じこもり,そして他者を(意識的にせよ,無意識的にせよ)排除するような論理を持ち出せば,それは立派な“スペシャリスト集団”である。それは,「家庭医は“あなたという患者のスペシャリストですよ”」的なスローガンの話ではなく,彼らがルサンチマンを抱きつつ言うところの,「全くスペシャリストって奴らは」的なスペシャリストなのだ。

 考えてみれば,われわれ医療者は,医療以外のことに関して言えばド素人である。先日,わが家では食洗機が故障し,複雑な確定申告が必要になり,海外出張のスケジューリングが必要になり,携帯電話を格安SIMにし,統計解析ソフトのトラブルシューティングが必要になり……といろいろなことが起きたが,全部自分ではトラブルシューティングできず,他者に助けてもらった。

 もちろん場合によっては,ぼく自身で食洗機の応急手当をし,確定申告を自分でやり,海外出張のスケジューリングを独自にやり,携帯電話の手続きを自分でやり……というのはできるかもしれない。しかし,それはぼくが,ぼくとぼくの家族に対してだけ適用できる“素人芸”にすぎない。これらの仕事をぼくが誰かの代行でしたとしても,少なくともそれは料金を取れる「プロの仕事」ではない。

 医療者は医療のことばかりやっているとは限らない。多くの医療者は「経営者」でもあるし,栄養学とか統計学とかITとかAIとか法律といった「医療周辺」にも手を伸ばしている医療者も多いことだろう。しかし,それとて「ジェネラル」というのとは違う。あくまでもそういうのは「医療の周辺」にある近隣領域にすぎない。

 ぼくはファイナンシャル・プランナー(FP)だから,お金については通り一遍の勉強をしているし,専門性を持っているとは言えるけれど,やはり医療の周辺以外についてはプロフェッショナルな仕事ができるとは言い難い。

 ジェネラリストは「包括的に患者を見る」といい,その包括性を大事にするが,しかし,その「包括」はあくまでも医療目線の包括性である。医療や健康といった価値はより大事にされ,その他の価値は無視されるか,良くても“より下”に見られてしまう。「注射は痛いからワクチンは打ちたくない」という患者の意見を,ジェネラリストは無視したりはしないだろう。しかし,「あの患者の言っていることは間違っている」と心の底では思っているはずだ。「太く短く生きたいから,好きなタバコはやめられない」患者がいれば,「そうですか」と一応はうなずいてはくれるだろう。しかし,その表情は間違いなく「それでもあなたは間違っているんですけどね」と語っているに違いない。「痛み」や「快楽」は「健康」よりも格下の概念なのだ。

 本当だろうか?

 もちろん,価値の高低に「真偽」はない。各人各様に価値観はあり,その価値観の高低は全て「真」だ(嘘をついているのでない限り)。

 FPはその点,医療者よりもよりクライアントに寄り添っている。FPは「株なんて買わずに不動産を買え」とか「買い物せずに,貯蓄しろ」とは言わない(ぼくが知る限り)。FPはクライアントの「こういう人生を送りたい」という価値に寄り添い,「それでしたら,こういうお金の使い方が一番フィットするでしょう」とテクニカルなサポートをするのである。もっとも,より多様性を大事にするとはいえ,FPにできるのはやはり「お金とその周辺」の話だけだ。FPは紛れもなく,スペシャリストである。

 自分の立場の枠,タコツボ内にいる限り,彼らは「ジェネラリスト」を自称できるだろう。しかし,ツボの外から,遠くから見れば,他者から見れば彼(女)らは皆「医療のスペシャリスト」だ。プロ=スペシャリストという解釈すら成り立つのだから。良い悪いは置いておいて,「そういう視点」,鳥の目は重要だ。

 自らを相対化し,ジェネラリストとしての矜持だけでなく,スペシャリストとしての側面にも自覚的になれば,「ジェネラリスト」はさらに自由になれるとぼくは思う。真に患者に寄り添えるとも思う。医療を脱臼させ,より相対化できるとも思う(ロラン・バルトがそう言ったように)。スペシャルティへの自覚が,よりその人物をジェネラリストに近づけるのだ。まるで,魔法である。

つづく

開く

医学書院IDの登録設定により、
更新通知をメールで受け取れます。

医学界新聞公式SNS

  • Facebook