母の最後の日
連載
2008.09.22
看護のアジェンダ | |
看護・医療界の“いま”を見つめ直し,読み解き, 未来に向けたアジェンダ(検討課題)を提示します。 | |
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井部俊子 聖路加看護大学学長 |
(前回よりつづく)
2008年7月最後の月曜日の朝,バッグの中で私のケータイが鳴った。学長室の机の上に積み重ねられていた書類に目を通し終えたころであった。外は真夏の空が広がり,蝉しぐれがにぎやかだった。
電話は,母が入院している病棟のナースからであった。血圧が下がってきている。下顎呼吸が始まっている。心拍が110くらいである。足の裏の色が悪くなってきていると伝えてきた。前日の日曜日に母を見舞った1512号室で話をしたナースであった。ああ彼女は夜勤だったのだと思った。そして私はいよいよその時が来たと思った。
その日は文部科学省の調査が午後から予定されており,「オープン学長室」と「夜勤プロジェクト」が手帳に記されていた。どうしようかと一瞬考えたがすぐに「母の所へ行こう」と決めた。秘書に告げて,以後3日間の予定をすべてキャンセルしてもらった。学部長に,母が危篤なので病院に行くと伝えたときに涙が頬を伝った。それからしばらく,私の涙腺はたくさんの涙を風船のようにためこんでいて,少しつつくとどっとあふれた。ハンカチはタオルハンカチを持ち歩くことにした。
東京から新幹線で2時間の田園風景が残る町に母の病院があった。短かった妹家族との暮らしを切り上げて,強い背部痛と断続的に襲い掛かる吐き気への症状コントロールのために入院してから19日目であった。
私が到着するまで母は息をしているだろうかと考えると,その時を予期し何回も覚悟をしていたはずなのに,私はうろたえた。しかもうろたえている自分を冷静にみているもうひとりの自分がいた。胸がどきどきした。昼時なのに食欲はまったくなかった。まるで恋の始まりと一緒だと思った。ナースとして水分の補給はしておこうと考え,東京駅でペットボトルを買った。母が好きだった爽健美茶を選んだ。奮発してグリーン車に乗り2時間じっとしていた。
1512号室には午後3時ごろに着いた。母は息をしていた。病室の状況はナースとして見慣れている光景であった。いつもと違うのは,その患者が私の大好きな母であるということであった。片すみには母が履いて来た小さな黒い靴があった。私はその靴を,もう足を入れる人はいないと思いながら見た。
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