医学界新聞

対談・座談会 小川 公代,東畑 開人

2025.12.09 医学界新聞:第3580号より

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 英文学者の小川公代氏が,難病を抱える母親の介護についてつづった『ゆっくり歩く』(医学書院)1)。そこでは,ゆっくり歩けない娘がゆっくりしか歩けない母のスピードに合わせることの難しさが,数多くのエピソードを重ねながら語られている。本対談では,臨床心理士の東畑開人氏を迎え,「誰かをケアするということ」をテーマに話してもらった。二人の対話から見えてきたのは,ケアとは対象となる相手だけでなく自分自身をも作り変えていく営みであり,そこでは物語が大きな役割を果たすことだ。

東畑 『ゆっくり歩く』を読みました。いろいろなことが思い出されて,とても面白かったです。とりわけ思い出したのは,過去に僕が面接をした不登校児の親御さんです。お子さんの歩みが今までのスピードではなくなってしまったことに困り果ててカウンセリングに来られるわけですが,そのときに「ゆっくり歩く」ことを学ばねばならないんですね。

 不登校になるって,いろいろなことがうまくできなくなることなんです。学校に行くだけじゃなくて,お風呂に入って,夜はちゃんと寝て,朝になったら起きてといった日常的行動が滞る。うまくいかない。そういうお子さんにかかわろうとするときに,親御さんは試行錯誤します。うまくケアできなくて,かえって傷つけてしまうことが起きるから。しかし,そのような試行錯誤の時期を通じて,親自体が変わっていくのです。今までの自分を見つめ直して,自分の何が子を傷つけていたかを考えるようになり,それまでとは少し違う形で子とかかわるようになります。そのことが家族全体を変えていく。「ゆっくり歩く」ことを学んでいくんですね。この意味で,小川さんの著書では具体的には難病を抱えるお母さまの介護がつづられているわけですが,介護に限らずさまざまなトピックに接続できる広いテーマが扱われていると思いました。

小川 ありがとうございます。お話を伺っていて,不登校児の親の問題って,もしかしたら「聞くこと」の問題なのかなと思いました。東畑さんの著書『聞く技術 聞いてもらう技術』(筑摩書房)2)に書かれていることにも通じますが,子が学校に行き始めて,おそらく親としては子の話,例えば学校でのことを聞いているつもりだけれども,実際には本当の意味で子の声に耳を傾けてこなかった可能性があるのではないかと。

 そういう可能性は,私が『ゆっくり歩く』を書きながら,頭の片隅で考えていたことと似ていると感じました。多分,私も母のつらさにずっと耳を傾けてこなかったんです。それは病気になってからだけの話ではありません。私が幼い頃から母は家庭内の全てのケアを担ってきてくれたにもかかわらず,母の声に耳を傾けてこなかったことの負い目が,本を書きながら思い出されたんです。単に病気になって傷ついているだけではなく,病気になって初めて,自分の声を誰かに聞いてもらわないと生きていけない状況に追い込まれた。家族全員に気を使って,ケアをして,声を聞くことを続けてきた人が,翻ってケア対象であった家族に自分の声を聞いてもらえるのかという崖っぷちに立たされているわけです。

 それで,その崖っぷちにいる母の声をもし私が聞けないとしたら,それはとんでもないことなのではないかという重圧を感じるようになりました。もし今難病を患う母の声に耳を傾けることに失敗したら……と考えてしまったのです。東畑さんの言うところの「聞くことに失敗する」ですね。多くの人が当たり前のように失敗しているのだとは思うものの,母が病気になるまで気がつかなかったことにショックを受けました。

東畑 自分を責めてしまう気持ちはとてもよくわかります。一方で,僕は子どもは普段親の話なんて聞かなくてもいいんじゃないか?とも思いました(笑)。というのも,親というのは子どもに話を聞かれていないときにこそ良い仕事をしていると思うからです。『雨の日の心理学』(KADOKAWA)3)という本で書いたのですが,晴れの日,つまり元気なときには,子が自分の話なんて全く聞いていないことによって親は育児に成功していて,それはそれで素晴らしいことだと思うんですよね。雨の日,具合が悪くなった時に,親にもケアが必要なのだと気づいて,慌てて話を聞くという応対で十分なんじゃないか,あるいはそういうものなんじゃないかと思うんです。

小川 母にも雨の日があったはずなのに,そういう日にも,私は母が全能だと思い込んでいたということに引っかかっているのかもしれません。ですから今になって,そんな母でさえ同じ人間で傷つくこともあるという,その脆弱性に直面したときに,はるか昔までさかのぼって,「あの時も雨の日だったのか」「この日も雨の日だったかもしれない」と考えるようになったわけです。そういう感覚が,本書を書き始めた頃はずっと自分の中にありました。

東畑 その意味では,親が不登校の子をケアするほうがまだやりやすいのかもしれません。子どもが大人よりも脆弱であるのは当然で,親としては素直に何かしてあげなければと思いやすい。一方で,親が脆弱であることには難しさが伴います。親が脆弱だと認めることの苦しさがまずあります。また,過去に親との間で苦しい関係があった場合は,これだけいろいろと嫌な思いをさせられたにもかかわらずその親を介護するのかといった葛藤も生じ得ます。いずれにしても,子としては親の脆弱さに直面したくない,直視したくないという気持ちになりやすい気がします。

小川 本当におっしゃる通りで,直視したくないですし,ケアの前提に対立する親子関係があることは少なくないと思います。『ゆっくり歩く』の中にも私と母の不和に関するエピソードをいくつか書きましたが,そこに焦点を当てたかったわけではないので,それだけに終始しないようにしました。

東畑 この本の中で小川さんは,ご自身の物語についてずっと考えていますよね。幼い頃のご両親に関するエピソードや,おばあさまに関する思い出など,記憶にひもづいたたくさんの出来事が立ち現れては消えていきます。介護に関して考えるならとりあえず目の前にあるやるべきことを具体的に考えたり変えたりすればいいはずなんだけれど,そうではなく過去を振り返っていく。そして,過去を振り返るうちにだんだん現在目の前にあるものの変化も促される。過去の自分の物語を思い起こす中で,現在の在り方自体が変化していくというのが,本書の素晴らしい点だと思いました。

 それに関連して興味深かったのが,小川さんとお母さまとの間でたびたび文学が共有されることです。例えば「こんな体になったら希望もなんもない」「はよう,お父さんのところに行きたい」とつぶやくお母さまに,小川さんはボルヘスの「隠れた奇跡」を語って聞かせます。

小川 ゲシュタポに逮捕されたユダヤ人劇作家が銃殺される瞬間,神の力で物理的世界が停止して,未完の劇作を完成させる話ですね。

東畑 死を前にしてしぶとく生き抜いた劇作家の物語が,そのときのお母さまをぐっと惹き付けました。これは子をケアしているときには起こりにくい気がします。子どもの興味あるもの(ゲーム,YouTubeなど)に親が関心を抱くということはありますが。文学という小川さんの世界を共有しようとして,お母さまがそれを受け入れたということでもあると思って,素晴らしいなと思いました。どうして文学だったのでしょうか。

小川 東畑さんの『カウンセリングとは何か』(講談社)4)という書籍の中に,「古い物語を終わらせ,新しい物語をはじめる」というお話があります。古い自分が死に,新しい自分が生まれることを東畑さんは「文学的変化」と呼んでいます。そうした変化は普通に人生を生きていても起こるけれど,カウンセリングはそれを補助するとのことでした。

 私の場合,母と向き合うには,すぐに意見が食い違う母娘関係を乗り越える必要があります。そのためには,別の文脈から物語を引っ張ってこなければいけない。そうでないと,私と母の関係はどこまでも平行線をたどってしまいます。そうならないためのプラットフォームを作るために,異なる物語を持ってくるわけです。

東畑 古い物語を終わらせることって本当に難しいんですよね。

小川 そうなんです。特にその人の実存にかかわる問題は,簡単に切り離すことができません。母の場合,それは「元気な自分」という物語でした。体が自由に動いていた頃は琵琶を奏でながら人前で歌ったり絵を描いたりして,文化的活動を通して人とのつながりを大切にして,生き生きとしたいように暮らしていました。その頃の自分が本当の自分だと思いたいわけですね。だからこそ,その古い物語を今の自分からなかなか切り離せなくて苦しむ。体が自由ではないことに苦しんでいるというよりも,生きたい物語を生きられないことに苦しんでいると言ったほうがぴったりくるかもしれません。東畑さんが『カウンセリングとは何か』でおっしゃることは母の状況を的確に説明してくれていると思いました。

 先の東畑さんの質問に端的に答えるならば,古い物語を新しい物語に切り替えるきっかけ作りのために文学に頼っているのだと思います。

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東畑 なるほど。一般的に言っても小説を読むという行為は,古い物語を終わらせるための営みなのかもしれません。

 先日,別の仕事のために村上春樹の『ノルウェイの森』を久しぶりに読み返していて,過去とは見え方がいろいろと変わっていることに気付きました。昔読んだときとは,こちらも違う物語を生きているからなんでしょうね。当時は当時の物語を終わらせるために,今は今の物語を終わらせるために読んでいる。「終わらせる」ではニュアンスが強すぎて,「物語を進展させる」くらいにとらえてもいいのかもしれません。

 いずれにせよ,お母さまが変化を迎える中で文学に触れるということは,母娘二人のコミュニケーションとしても機能するけれど,お母さまご自身の自己対話,自分とのコミュニケーションとしても意味があるのだろうなと思いました。

小川 村上春樹の小説は私も好きなのですが,その理由は,大切にしている人の命が失われるその瞬間を扱っているからです。自分というものは決して一人で立っているわけではなく,過去に誰かと紡いできた物語があってこそ今があります。ですから誰かが亡くなったとき,その人はもういないけれど,その人との物語は自分の中で何回も反芻されるものだと思います。フロイトの言う喪の作業を,村上春樹はとても丁寧に行うんですね。例えば『騎士団長殺し』の主人公は亡くなった妹のことを延々と思い出しながら,あの瞬間の自分はこういう気持ちでいたんだといったことを考える。こうした古い物語の語り直しは,亡くなった人を自分の中でずっと生き続けさせることなのではないでしょうか。そうしたことを回路にして,いかに新しい物語を生き始めるのかを,私は文学を通して実験的に考えたいのだと思います。

 『ゆっくり歩く』の中で,私は亡くなった祖母の話を丁寧に語りたいと考え,実際にそのように書きました。祖母の話を語ることは,母がこれから生きるために必要だと直感したからです。体の自由といった意味では古い物語を終わらせつつも,同時に古い物語を置き去りにすることなく持ち続ける意味もあるのではと思うんです。元気だった頃に好きな人と対話したこと,一緒に生きてきた軌跡のようなものを手放したくない気持ちとでも言うのでしょうか。古い物語も多様で,その多様性の中から母が自分の新しい物語をうまく紡ぐために活用できるものを取り出せるのではないのかな,と。

東畑 村上春樹の小説は喪の作業である一方,自分自身の心が死んでいる,あるいは心の中の他者が死んでいる人の物語でもあると思います。寒々とした世界というか。これに対して,『ゆっくり歩く』を読んでいて感じたのは過去の描写の温かさです。心の中に生きている人たちの体温がそこにある。思い出されるエピソードの中で,お父さまも含めてそこにいる人間がちゃんと生きている感じがあります。

東畑 ここまでのお話を伺っていて思い出したことがあります。カウンセリングで行われる心理療法の一つに箱庭療法というものがあって,そこでは治療者が見守る中でクライアントが箱の中に自由にミニチュアの玩具を並べていくんですね。そこでいろんなドラマが展開されたり,治療が成り立っていったりするわけですが,その起点には治療者の欲望があるんです。「箱庭療法面白いよ」っていう。

 もちろん無理やりやらせることはないし,そんなことはできないんですけど,治療者の箱庭療法への強い思い入れがないと始まりにくいし,始まってもそれが治療的に展開しにくいんです。クライアントは治療者の箱庭療法への思い入れに乗っかって,一緒にやっていく。そうすることで,他者と一緒に居るのが難しい子どもが,治療者とは一緒に居られるようになる。小川さんの本を読んでいて,お母さまが小川さんと一緒にいるために,文学という小川さんの愛するものに乗っかっていった側面があるんじゃないかと思ったんです。

小川 そういう側面は確かにあります。「乗っかる」という表現は的確だと思いました。実際のところ,母に物語を聞かせる際にもそのときの私の状態によって結果はさまざまです。私のほうが躍動感があって乗れていたり,元気がなくて乗れていなかったりがまずあって,自分が乗れていなければどれだけ語っても母は乗ってこないです。反対に,私が語りたいという欲望を心の底から有していて,その上で語ったときには母の共鳴する度合いも高くなります。単なるお付き合いを超えて共鳴してくれるときがあるんですね。

東畑 カウンセリングも,日々のケアも同じだと思います。ケアする側の趣味もあるし,欲望もある。それを受けて,ケアされる側も箱庭療法や文学が面白く思えたり,思えなかったりするわけです。小川さんじゃない人が介護するときには,文学じゃなくて,例えばK-POPアイドルが回路になることもあると思います。ここに商取引的な想像力だけではとらえられない,人間関係のふしぎがあります。

 それって,小川さんとお母さまの話で言うと,母が今までよく知らなかった新しい娘に出会ったということでもあると思うんです。つまり,文学者としての娘という外向きの顔があって,お母さまはよく知らなかったはずです。それが,これまでの母と娘という関係とは異なる,介護という新たな関係に突入したときに,新しく見えてくる。それまで家庭で見ていたのとは違う娘と出会い直す。その新しい物語が,いろんな場面でお母さまの心を揺らしているのだと思います。そういうのがケアの素晴らしいところだと思うんです。

小川 なるほど。今ご指摘を受けて思ったのですが,私は次女なので,家庭の中での立ち位置はやはり甘えん坊なんですね。長女の姉がしっかりしていて,次女の私はもう少しだらしがないと言いますか。母と姉で私のだらしさなさを指摘して,ちょっと笑いがこぼれるような。それが今までの物語です。

 新しい物語では,そんな次女であった私が今度はしっかり者としての物語を生きることを求められているのかもしれません。母がケアラーだった頃の古い物語は捨て去らないといけない。そこにきて私が文学という目新しいものを持ち込んで語り始めるので,母からすると新鮮なのでしょう。

東畑 新鮮だし,すごくうれしいことなんじゃないですか。子どもが,自分の世界で獲得してきたもの,一人旅で見つけてきたものを目の前に持って来てくれて,それがとてもキラキラしているのは。

小川 だからなのかもしれません。母はわりといつも私に対して批判的というか,「だからダメなんじゃないの」といったことをよく口にしていたのですが,文学の話だと素直に聞いてくれることが多いんです。初めて私を娘としてというよりも,ケアする実践者として,あるいはパートナーとして認めてくれたような印象を受けています。

東畑 職業人として認めてくれているんじゃないでしょうか。娘が外の世界で頑張って手に入れてきたものの,かっこよさとかイケてる感じを,お母さまが素直にいいなと思うことは,心の栄養になると思います。単にお母さまの世界に合わせるだけではなく,娘が手に入れたものの良さにお母さまが目覚める……というのは,古い物語を終わらせることに他ならないですよね。

小川 ありがとうございます。私がいま母に対して行っているケアの内実を,東畑さんには言語化してもらった気がしています。生活を守ることで人生が死んでしまう,生き延びるために心の一部を殺さざるを得ない,そうしたことを私自身がやってしまっているのではとの不安をどこかに抱えて生きているんですね。生活に取り込まれないケアはどうすれば実現できるのか。そう思いながら言語化できていなかったことが『カウンセリングとは何か』には書かれていました。これからも自分の実存を大切にしながら,介護を続けていきたいです。

東畑 僕は最近どんどん文学推しになってきています。文学よりも気高いものはないんじゃないか,くらいの勢いでいるんです(笑)。人生においてはその時々で変化が必ず訪れるわけですから,生き方が変わっていくことを描いた物語の果たす役割は実はとても大きいのだと思います。小説を書く人がいて,それを読んで考え,自分の人生をやりくりしている人がいる。映画でも,アニメでも,インフルエンサーの生きざまでもいいと思うんです。そこには文学性があり,心を揺らす力がある。人間というのは生物学的に,経済学的に生きていると同時に,文学的にも生きている。今回のご著書では,そういうことを改めて考えさせられました。

(了)


1)小川公代.ゆっくり歩く.医学書院;2025.
2)東畑開人.聞く技術 聞いてもらう技術.筑摩書房;2022.
3)東畑開人.雨の日の心理学――こころのケアがはじまったら.KADOKAWA;2024.
4)東畑開人.カウンセリングとは何か――変化するということ.講談社;2025.

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上智大学外国語学部 教授

1995年英ケンブリッジ大卒。英グラスゴー大Ph.D. in English Literature。2007年より現職。専門はロマン主義文学,医学史。22~23年に医学界新聞にて「他者理解を促すためのブックガイド」を連載。『ゆっくり歩く』(医学書院),『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社)など著書多数。X ID:@ogawa_kimiyo

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白金高輪カウンセリングルーム / 臨床心理士

2010年京大大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。精神科クリニック勤務,十文字学園女子大准教授等を経て,白金高輪カウンセリングルーム主宰。臨床心理士,公認心理師。『居るのはつらいよ――ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)など著書多数。X ID:@ktowhata

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