あらゆることは今起こる
私の体の中には複数の時間が流れている。
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眠い、疲れる、固まる、話が飛ぶ、カビを培養する。それは脳が励ましの歌を歌ってくれないから?──ADHDと診断された小説家は、薬を飲むと「36年ぶりに目が覚めた」。私は私の身体しか体験できない。にしても自分の内側でいったい何が起こっているのか。「ある場所の過去と今。誰かの記憶と経験。出来事をめぐる複数からの視点。それは私の小説そのもの」と語る著者の日常生活やいかに。SFじゃない並行世界報告!
シリーズ | シリーズ ケアをひらく |
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著 | 柴崎 友香 |
発行 | 2024年05月判型:A5頁:304 |
ISBN | 978-4-260-05694-6 |
定価 | 2,200円 (本体2,000円+税) |
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序文
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プロローグ──並行世界
小学校一年生のときだったと思う。
音楽の授業で、音楽室ではなく普段の教室だった、というのは今私の脳の中で浮かぶ画像がそうだからなのだが、ほんとうにそうだったかはわからない。
授業が始まってすぐに先生が、はい、今日はなにをやるか、みんなわかってるなー? と聞いた。背が低かった私はいちばん前の席で頷き、曲名を大きな声で言った。教室中のみんなもいっせいに曲名を叫んだ。
私だけ、違う曲名を叫んでいた。
幸いその声は、みんなの元気いっぱいの声にかき消され、周りには気づかれなかった。
先生は、はい、じゃあみんなで歌いまーす! と言い、みんなも、はーい、と返事した。
私はなにが起こったのかと、周りを見回しつつ、全然知らないその歌に適当に合わせて歌っているふりをした。歌っているように見せつつ、内心はとても混乱していた。
どうしよう。
みんなが別の人に入れ替わったのかも。
私が別の世界に来てしまったのかも。
授業は何事もなく終わり、その日の学校も何事もなく、次の日からもなにも変わらずに続いていった。
*
私には、そういうことがときどき起こった。
自分だけが突然違う世界に来てしまったのか、周りの人が急に私の知らないことを言い出したのか、よくわからないまま、なぜかそれを人に知られてはいけないと思って、ばれないように話を合わせ、何事もないようにふるまった。
小学生の私は、世の中にはそのような事態がときどき起こることを知っていた。『ウルトラセブン』に「あなたはだぁれ?」という話がある。ごく平凡なサラリーマンが酔っぱらって夜遅くに帰宅すると、団地の自宅のドアを開けた奥さんが「どちらさま?」とけげんな顔をする。息子も「どこのおじさん?」と言う。近所の人たちもおまわりさんも、誰も自分のことを知らないと言う……。マンモス団地が宇宙人に乗っ取られてそっくり入れ替わっていたという話だ。
漫画でもテレビのなにかでも、この類の話には何度か出会った。「パラレルワールド」という言葉はそのときは知らなかったが、自分だけが突然別の世界に入り込んでしまうのは起こりえることなのだとなんとなく思っていた。
いつもの時間に学校に行ったら誰もいないとか、待ち合わせたはずのところに誰も来ないとか、友達と集まったらみんなが持ってきているものを私だけ知らないとか。もっと何事が起きたのか理解できないときもあった。ともかく、みんなが知っているらしきことを自分だけ知らない、わからないのはなぜなんだろうと思っていた。
これは別の世界に移動したに違いない、とウルトラセブンの団地のおじさんみたいな気持ちで恐怖にかられて過ごしているのに、何事もなく周りの人は生活していて、そうするとまた別の世界に移動する。私はもとの世界からはだいぶん遠いところまで移動したのかなあ、と考えたりした。
中学生のときだったと思う。
テレビ版の『トワイライト・ゾーン』は、日本でも放送されていたのだったか、当時普及してきたレンタルビデオで観たのかは忘れた。何話か観た中に、ごく平凡な主人公があるときふと生活の中で違和感を抱く話があった。置いたはずの物がなくなっているとか、そんな感じの。そこは、「作っている途中の世界」だった。世界は数秒ごとに作られていて、人間はそれを知らないまま次々に世界を移動している。主人公はなにかの偶然でまだ工事中の世界の隙間に入り込んでしまい、置いたはずの物がなかったのは世界を作る工事をしている人たちのうっかりミスだった。
これや。と思った。
やっぱり世界はいくつもあって、ときどき私が変だと思うのは、工事してる人がなんか間違えたからだ。
それから三十年近く経って、時間SFのアンソロジーを読んでいたら、同じ話があった。シオドア・スタージョンの「昨日は月曜日だった」で、検索してみると中学生のときに観た『トワイライト・ゾーン』のあの話はスタージョンが脚本を書いていて、その小説版だった。
*
今から振り返って考えてみると、小学校の音楽の時間にみんなが突然全然知らない曲名を叫んだのは、たぶん前の時間に私が話を聞いてなかったんだと思う。大学のときも、学校に行ってみたら休講で、他の人たちに聞くと「先週言うてたやん」と言われることがよくあった。部屋で物が見当たらないのも、世界を作る工事のおじさんのミスではなく、私がどこかに置いてそれを思い出せないだけなのだろう。
それはわかる。私が聞いてなかったり間違えたり忘れたりしやすいことは、今では理由も含めてよく知っている。
だけど、「あなたはだぁれ?」や「昨日は月曜日だった」のような話がたくさんあることも、それが一定の人気を得ていることも、知っている。それはたぶん、子供のときの私が感じていたような感覚を知っている人、複数の時間や世界が並行して存在している感覚を持っている人が、私の他にもたくさんいるからに違いない。
私は今でも、並行世界を移動してきて、元いた場所からはだいぶ遠くにいる気がする。もしかしたらいつの間にか前にいたことがある世界にいるかもしれない。
私は今までに自分がいたいくつもの世界を、ずっと同時に生き続けている。
目次
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プロローグ──並行世界
I──私は困っている
1 なにもしないでぼーっとしている人
(ここでちょっと一言)
2 グレーゾーンと地図
3 喘息──見た目ではわからない
4 助けを求める
5 眠い
6 「眠い」の続き
7 地味に困っていること
8 ADHDと薬
9 ワーキングメモリ、箱またはかばん
10 線が二本は難易度が高い
11 励ましの歌を歌ってください
12 さあやろうと思ってはいけない
13 助けてもらえないこと、助けようとする人がいること
II──他人の体はわからない
1 強迫症と『ドグラ・マグラ』
2 時間
3 靴の話
4 靴に続いて椅子問題
5 パクチーとアスパラガス
6 多様性とかダイバーシティみたいな
7 「普通」の文化
III──伝えることは難しい
1 そうは見えない
2 「迷子」ってどういう状況?
3 視力と不機嫌と客観性
4 ASDキャラとADHDキャラ
5 片づけられない女たち?
6 わからないこととわかること
7 毒にも薬にもなる
8 体の内側と外の連絡が悪い
9 奪われ、すり替えられてしまう言葉
10 気にするか、気にしないか
IV──世界は豊かで濃密だ
1 複数の時間、並行世界、現在の混沌
2 自分を超えられること
3 旅行できない
4 マルチタスクむしろなりがち
5 私と友達
6 向いている仕事
7 休みたい
エピローグ──日常
おわりに