看護のアジェンダ
[第233回] マティス「ロザリオ礼拝堂」の旅
連載 井部俊子
2024.05.14 医学界新聞(通常号):第3561号より
2024年3月20日午前10時15分,私はついにロザリオ礼拝堂に立った。
これは2023年春に,東京都美術館で開催されたマティス展の会場の一角に流されていた動画をみて,ロザリオ礼拝堂の美しさに魅了され,いつか本物を見たいという私の持続した情熱によって実現したものである。実は,2024年2月14日~5月27日まで国立新美術館で企画展〈マティス 自由なフォルム〉を開催中である。ここでも,「マティスが最晩年にその建設に取り組んだ,芸術家人生の集大成ともいえるヴァンスのロザリオ礼拝堂にも着目し,建築から室内装飾,祭服に至るまで,マティスの至高の芸術を紹介いたします」とあり,私は少し慌てて,国立新美術館にも訪れた。しかし,展示されているロザリオ礼拝堂は,私の本物を見たいという欲望を覆すものではなかった。
『地球の歩き方 フランス 2024~2025年版』(Gakken)では,ロザリオ礼拝堂があるヴァンスを次のように紹介している(490頁)。「ヴァンスは,コート・ダジュール独特の中世の村だが,生活の匂いがほどよく感じられる気持ちのいい村だ。村外れには,画家マティスが造り,自ら『陽気さのあふれた教会,人々を幸せにする空間』と評したロザリオ礼拝堂がある。シェロの木に囲まれひっそりたたずむ小さな礼拝堂へは,村の中心から歩いて15分くらい。彼は晩年の4年間をかけて,この礼拝堂を制作した」。さらに旅行者を次のように誘う。「内部には,選び抜かれた3色(ウルトラマリンブルー,濃い緑色,レモンイエロー)で構成されたステンドグラス,そこから差し込む陽光を受ける白いタイル,そして壁面には黒の素描『十字架の道行』と『聖ドミニク』の図。すべての色彩が完璧といってもいいくらい調和して,とりわけ黒い太い線が全体の明るさを決して殺してはいないのは驚きだ。マティスは黒という色を最もよく理解した人だったに違いない」(この記述は秀逸であるとのちに思う)。
冬の午前11時のロザリオ礼拝堂にて
何かのガイドブックで得た,ロザリオ礼拝堂は冬の午前11時が最もすてきであるという情報にこだわった私は,日本人ガイドのアキラさんに依頼して,滞在2日目を迎えたニースのホテルを朝9時に出発した。ニースには海岸沿いに全長3.5 kmの大通りがある。1820年,在留イギリス人たちの出資によって造られたため,「プロムナード・デザングレ(イギリス人の散歩道)」と名づけられた。プロムナードを抜け,路上駐車で混雑する狭い通りを抜け,卓越したドライブ技術と,ニースの歴史を語るアキラさんのガイドに導かれて,約1時間でロザリオ礼拝堂に到着した。
そこは,「アンリ・マティスが手がけたヴァンスのドミニコ派ロザリオ礼拝堂」であった。売店に日本語訳の冊子が販売されていた。その冊子には以下のように記されていた(抜粋)。
私は,私の礼拝堂に入る人たちが清められ重荷から開放されることを望む。
この礼拝堂は,壁の圧迫感による重圧を感じない空間であるという印象を与えはするが,わずか奥行き15メートル,幅6メートル,高さ5メートルである。
青いガラスの成分により,日のある間は,太陽がステンドグラスを通して白い床に薄紫から紫の光の点を投影し,冬の間はそれは反対側のセラミックの上まで届く。そして光沢のない黄色はオークル色の反射を創り出す。
祭壇背後の奥に位置するメインのステンドガラスは,「命の木」と題されている。
アンリ・マティスは,花をつけたウチワサボテンをテーマに選んだ。このサボテンは不毛な砂漠にも生えて,花を咲かせ実をつけることから,忍耐力と生きる意志のシンボルと考えたのである。
2つの窓には,両側にドレープをなして垂れる黄色いカーテンが描かれている。
オルガンのパイプを思わせる15の窓。アンリ・マティスはここでも植物のモチーフである椰子の葉を選び,2つの部分でそれぞれバランスに変化を持たせている。
空にはマティスのデザインによる青と白の屋根がくっきりと浮かび上がる。
「私はこの十字架が,軽やかな祈りのように,煙のように高く,空に上ることを願う」アンリ・マティス(1869-1954)
レイト・ワーク
羽田空港からパリ/シャルル・ド・ゴール空港までおよそ15時間,そこからさらにニース/コート・ダジュール空港まで1時間半をかけて,ロザリオ礼拝堂に旅した理由がもうひとつあった。それは,大江健三郎の『親密な手紙』(岩波書店,2023年)で言及される「晩年の仕事」についてであった。「この十五年ほどは敬愛する友人の死にあうことが続き,もとより自分の老齢化の自覚もあって,先行者のひとりエドワード・W・サイードの『晩年のスタイル』は原著と翻訳(岩波書店)ともにまさに枕頭の書である(40頁)」(註)。
サイードの『晩年のスタイル』(岩波書店,2007年)において大橋洋一は訳者あとがきで次のように記している。 「“late”に『遅れた,時宜を得ない』という意味が挙げられよう。たとえ時代の最先端を走っていると自負している人物でも,あるいは時代とともにあることを実感している人物でも,人生のある時期から,自分が時代とずれている,時代に取り残されている,時代についていけないという不安にかられはじめる」。そこで,再び時代の先頭に立とうとする人もいれば,時代に逆らおうとする人もいる。「そのような人たちは晩年の反逆者たちであり,“late style”とは『抵抗のスタイル』でもある」。さらに「死を前にした人間が,時代とのズレを意識しつつ,時代に抵抗し続けること,円満な和解と完成と達成に逆らい続けること,これが“レイト・スタイル”である」と指摘する。
私にとってロザリオ礼拝堂への旅は,まだ未完である。
註:枕頭の書とは,死ぬ間際に病臥のかたわらに置いていたり,読みかけていたりした本のこと。
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