他者理解を促すためのブックガイド
[第11回] アンネの靴
連載 小川公代
2023.08.28 週刊医学界新聞(看護号):第3530号より
究極的な「他者」は物と言えるかもしれない。もちろん,物は道具として用いられる場合もあるが,それ自体が象徴的な意味を含んでいる場合もある。美術批評家ボリス・グロイスの『ケアの哲学』1)を読んでいると,物や身体を象徴的にとらえることこそがケアであると解釈できる。単なる物としてではなく,他者の生が乗り移ったような「物」としてそれらを見始めるとき,そのまなざしにはケアが宿るという考え方である。
小川洋子の小説は物やその記憶がテーマであることが多いが,それらは常に奪われる危機にある。例えば『密やかな結晶』2)は,切手,帽子,カレンダーなどの大切な物の記憶が人びとの脳裏から消えてしまう物語で,失われたはずの記憶を隠し持っていないかを秘密警察が監視するのである。あるとき語り手の「わたし」の家にも秘密警察が二人やって来て,彼女の亡くなった父による野鳥研究の関連書物やメモの全てを袋十個に詰め込んで「表に停めてあったトラックで去って行った」。物と共に記憶を保持していることは死者をケアするということでもあり,それらを奪われた「わたし」は,「大切に封じ込めておいた父の気配がすっかり消え去り,代わりにそこは,取り返しのつかない空洞になっていた」と感じている2)。
グロイスは,物とこのような象徴的な意味について説明するために,ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーが用いた例を参照している。ハイデガーは,芸術的な物とは何かを考える際に,道具とは何かを考察する。わかりやすく言えば,道具とは有用的なものであり,生産性につながる。他方,芸術は世界を開示するものだと考えている。
ハイデガーは,この汚い,擦り切れた靴が,大地の上で懸命に働いて人生を過ごした農婦の世界を明らかにすると書いている。(中略)ハイデガーにとってこの靴は,ゴッホとハイデガーの両方ともまた参与していた,農民の生活の世界への眼差しを開いたのだ1)。
ゴッホが描いた靴を通して,農民の生活の世界へと開かれたまなざしは,その絵の鑑賞者にも開示される。グロイスは,それを「正当な鑑賞者である人民」と表現しているが,文学作品にも適用できるだろう。グロイスは,真の「ケア」とは,「他者や他のものによってコントロールされた世界の中の物になること」に抗うことであるというが,小川はまさに物を書くことによってケアが奪われないよう抵抗している。
小川は『アンネ・フランクの記憶』3)というルポルタージュにおいて,戦争やユダヤ人迫害に対して無力だった少女アンネの物に言葉で生の息吹を吹き込んでいる。彼女は,『アンネの日記』の舞台となったアムステルダムの隠れ家,フランク一家の恩人でもあるミープ・ヒースやアンネの親友の元を訪れた。そして,最後に足を運んだアウシュヴィッツでは,命を奪われたユダヤ人たちの靴の山を目にしている。「『どうしてこんなに靴があるんだ』と,わたしは誰かに問いただしたい気分だった。どの靴も皆,濃い灰色をし,形が崩れ,疲れきったように横たわっている」3)。この描写はまるでアンネの人生の最期を象徴しているようでもある。
ただ,小川は,アンネの親友だったジャクリーヌ・ファン・マールセンとアンネについて話す糸口として,そのときもやはり「靴」を持ち出しているが,そこにはアンネの生が再現されている。「わたしが一番心に残っているのは,アンネの新しい靴が,ベッドの前の床に,たったいま脱ぎ捨てられたばかりのようにころがっていた…というくだりです。その靴が,好奇心いっぱい,元気いっぱいに駆け回っていた,アンネの化身のように思えたからです」3)。
芸術によって世界が開示され,隠されていない状態が「不伏蔵性」であるとグロイスはいう。ゴッホが描いた「靴」やアンネが履いていた「靴」にもその「開示」は見いだされるだろう。
参考文献
1)ボリス・グロイス(著),河村彩(訳).ケアの哲学.人文書院;2023.p133,p127.
2)小川洋子.密やかな結晶.講談社;1994.p23.
3)小川洋子.アンネ・フランクの記憶.角川書店;1995.p220,p102.
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