他者理解を促すためのブックガイド
[第10回] 映画『怪物』の語りの構造――『フランケンシュタイン』を手がかりに
連載 小川公代
2023.07.31 週刊医学界新聞(看護号):第3527号より
是枝裕和監督の最新作『怪物』を観た。学校から帰宅した息子が靴を片方なくしていたり,突然自分で髪を短く切ってしまったりすれば,どんな母親だって心配するだろう。麦野早織は,ある日,暗くなっても帰宅しない息子の湊を探す。彼女は彼の自転車を見つけて,うっそうとした樹木の茂みに分け入っていく。暗いトンネルで「怪物だ~れだ」と言いながら歩いてくる湊を発見した早織は,ただならぬ状況を感じとる。学校で誰かにいじめられているのではないかと考えるが,まさか彼がまったく別の種類の苦悩を抱えていることになど想像も及ばない。
このように,一人の人間の視点から語られる物語は常に何か大切なものを取りこぼしている。脚本担当の坂元裕二氏がこうした点を映画に取り込もうと思いついたのは自身の経験からだった。
車を運転中に信号待ちをしていて,前のトラックが青信号に変わっても進もうとしなかったことがあるんです。なかなか進まないから僕はクラクションを数回鳴らしたけど,それでもトラックは動かない。ようやく動いたと思ったら,トラックが進んだ後に見えたのは車椅子の方だったんです1)。
この映画には,まさにそういう取りこぼされた他者の視点を取り込み,その他者たちに同じ出来事を語らせることで,違うバージョンの現実が補完される仕組みがある。
作中,同じクラスの男の子・星川依里と親密な関係を築きつつある湊は,周りのホモフォビア的な反応に困惑し,激しい葛藤を抱え込んでいる。担任の保利先生はというと,組み体操でうまく支えきれない湊に「それでも男か」と言ってしまう,ジェンダーロールにとらわれた自身の思考に無自覚な人間である。依里を守ろうとして同級生の持ち物を投げ始める湊の乱暴な振る舞いは,保利先生の目には「怪物」に映ったのかもしれない。湊の母親に至っては,息子の苦しみに気づけないだけでなく,不用意に「どこにでもある普通の家族でいい」と息子に「普通」であることを求めてしまう。
心ない言葉がきっかけで,人の心のなかに「怪物」が宿る。湊が苦し紛れにつくうそは母親に担任の教員の怪物性を信じ込ませ,そして反対に教員の目には,息子を守ろうと闘いを挑んでくる母親こそが「モンスター・ペアレント」と映るのである。いったい誰が「怪物」なのだろうか。
映画『怪物』は,メアリ・シェリーによる小説『フランケンシュタイン』2)の巧みな語りの構造を彷彿とさせる。科学者によって生み出された被造物に名前がないのは,私たち読者に「怪物は誰か」という問いを突きつけるためでもある(現在,クリーチャーが「怪物」であると一般的に理解されているのは,ジェイムズ・ホエール監督の怪物像の影響が大きいだろう)。シェリーの小説には,入れ子構造を駆使した書簡体の語りに基づき,科学者の語りだけでなく,クリーチャーが苦しみを吐露する語りが挿入される。科学者がクリーチャーを化け物扱いし,見捨てたことによって,後者が迫害を受けることになった窮状が語られているのである。小説を読めば,科学者(=父親)こそが「怪物」ではないかという可能性が示唆され,差別を受ける被害者が怪物化されてしまう問題にも気づかされる。
『怪物』にも,男の子のことを好きな息子・依里を「化け物」と呼び,虐待する父親・星川清高の「声」が響いている。加えて,少年たち(依里や彼と心を通わす湊)の視点から語られる声も挿入されている。差別を受ける人間の声がなかなか包摂されない問題は,角田由紀子の「性被害にあった女性が『傷もの』(flawed)と呼ばれる文化が日本にはある」という言葉に集約されているだろう3)。
参考文献・URL
1)『怪物』パンフレット.2023.p22.
2)メアリ・シェリー(著),芹澤恵(訳).フランケンシュタイン.新潮社;2015.
3)Mari Yamaguchi. In Patriarchal Japan, Saying ‘Me Too’ Can Be Risky for Women. 2018.
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