他者理解を促すためのブックガイド
[第12回] 中村哲医師の「武器なき戦」
連載 小川公代
2023.09.25 週刊医学界新聞(看護号):第3534号より
日本という国に閉じこもっていては「他者」を真に理解することはできない。少なくとも国外で何が起こっているかを知る必要がある。パキスタン・アフガニスタンの人たちと向き合い,他者へのケア実践をしたのが医師の中村哲さんである。35年にも及ぶ現地活動の記録を撮り続けたドキュメンタリー映画『荒野に希望の灯をともす』や中村さんの著書に触れると,彼がいかに偏狭な自助思想から自由であったかがよくわかる。本連載の最終回にふさわしい〈他者理解〉につながる「本」は,中村医師の人生そのものである。
長い年月,彼の活動を間近で撮り続けた谷津賢二監督は「民族も,言葉も,宗教も違う人々から,中村医師はなぜ深く慕われ,強い絆を結ぶことができるのか?」と自問したという1)。そのヒントは,中村医師自身がつづった言葉にある。「一人で成り立つ自分はない。自分を見つめるだけの人間は滅ぶ。他者との関係において自分が成り立っている」2)。日本での医師の仕事を経て,JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)から声がかかり,パキスタンのペシャワールで働いたことをきっかけに「ペシャワール会」を発足し,現地に診療所を立ち上げた。ハンセン病患者約2万人に対して専門医が3人しかいない「惨憺たる」現実に直面し,中村医師自身はハンセン病診療に携わることになったのだが,彼の創意工夫には思わずうならされる。人手不足を補う工夫として「比較的健康な患者たち」から診療助手を募ったり,感覚麻痺による患者の「足底潰瘍」を予防するためにサンダルを奨励して「病棟の一角にサンダルの工房を設け」たり,とうてい医師の仕事とは思えないことまで行った。外国からの支援金は届かないばかりか「政府の有力者がピンはねする」ため,「涙金しか貧乏人には回ってこ」ない地域では,「民族も,言葉も,宗教も違う人々」と共に相互扶助の輪を広げながら工夫を続けるしかなかったのだ3)。干ばつによる水不足で「死にかけた幼児」を抱いて診療所に来る母親が急増した時は井戸を掘り,多くの命を救った。
ミシェル・ド・セルトーが『日常的実践のポイエティーク』で「弱者の戦術」を説いているが,アフガン難民や飢餓に苦しむ人たちも選択肢のない弱者なのだ。彼らは「押し付けられた」4)状況下でなんとか生活するしかない。中村医師はまさに身の周りにあるものを創造的に活用する「日常的創造性」の戦略を取った。飢えに苦しむアフガニスタンの人々の苦しみに無自覚で,「『米国対タリバン』という対決の構図」を信じ込んだ日本でも「アフガン報復爆撃」への世論は加熱していた2)。干ばつで作物が育たなくなり,地域の人たちが傭兵となるしかなくなった時,何十kmもの用水路をクナール川から引くという一大プロジェクトに乗り出したのは,中村医師だった。
しかもちょうどその頃,中村医師の次男が脳腫瘍で死期が近いと宣告を受けていたのだという。次男が闘病を続けていた最中に,空爆がテレビなどに映し出され,中村医師は「多くの幼い子らが殺傷されているだろう…(中略)…わが子の姿を重ね」ていたというのだ2)。彼にとって,自分の子どもの命もアフガニスタンの子どもの命も等価値であるということなのだろうか。攻撃の恐怖にさらされながらも,飢餓で苦しむ人たちは中村医師の用水路を建設するという「武器なき戦」に加わった3)。彼がその護岸にコンクリートを使用せず,鉄線籠の中に石を詰めて並べる方法を採用したのも,水生昆虫などの生命への配慮からであった。
2019年に凶弾に倒れた中村医師は,自然を含むあらゆる他者に配慮をしながら,より良い世界を創り出すために奮闘した稀有な存在であった。「見とれ,おまえの弔いはわしが命がけでやる。あの世で待っとれ」3)と亡くなった次男に語りかける中村医師の言葉からは,他者を決して見捨てない覚悟が見て取れる。
参考文献
1)劇場版『荒野に希望の灯をともす』パンフレット.2022.p3.
2)中村哲.天,共に在り――アフガニスタン三十年の闘い.NHK出版;2013.p46,94,74.
3)中村哲.医者,用水路を拓く――アフガンの大地から世界の虚構に挑む.石風社;2007.p88-9,p88,p77.
4)ミシェル・ド・セルトー(著),山田登世子(訳).日常的実践のポイエティーク.筑摩書房;2021.p19.
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