医学界新聞

看護のアジェンダ

井部俊子

2023.01.23 週刊医学界新聞(看護号):第3502号より

 2022年12月の年の瀬,長野までの北陸新幹線通勤も4年近くになりました。

 新型コロナウイルス感染拡大によって行動制限がなされた当時は,気がついてみたらひとつの車両に乗客が私ひとりという時もありました。現在も第8波の感染拡大時期なのですが,「マスクを着用し,座席は向かい合わせにせず,大声で話をしないように」という毎回の車掌のアナウンスはあるものの,客席はほぼ満席の状況になりました。東京駅は混雑が戻り,長野駅には観光客が増え,国際的に有名な地獄谷のSnow monkeyのポスターがコンコースにお目見えしました。刺すような冷気のなかで,人々は黙々と歩いています。

 私は出歩く時に読む物がないと落ち着かない習性があって,何かしらバッグに入れて持ち歩きます。持ち歩いていても,全く読まないでぼーっとしていたり,居眠りをしていたりすることも多いのですが,モットーとしては,1時間半の乗車時間は30分睡眠,1時間読書としています。

 東京駅の北陸新幹線改札口のすぐ近くにできたBook compassというこぢんまりした本屋さんに立ち寄り,本を眺めるのが日課です。といっても,週に1~2回というところでしょうか。並んでいる本の面々が入れ替わっていて,新顔が登場したり,古顔が移動させられたりと,なかなか目が離せません。

 ある日,その一角にあったとある本を手にとって,「まえがき」を立ち読みしました。すっと読めました。けれどもその時はバッグに読みかけの『女性のいない民主主義』(前田健太郎著,岩波新書,2019年)が入っていたので,その本は買わずに店を出ました。けれどもタイトルが印象に残っていました。

 12月も残りわずかになったある日,バッグの中には読み物が入っていないことに気がつきました。そして,「そうだ。あの本はまだあるだろうか」と思い,書店を訪れました。ありました。行きと帰りの車中で読み終えました。その本が,このたび日本大学の理事長になられた林真理子さんの『成熟スイッチ』(講談社現代新書,2022年)です。「林真理子」と書かずに「林真理子さん」と書いたのは,このたび長野保健医療大学の校歌の作詞をしていただき,お目にかかったからです。

 林さんは成熟の姿を次のように書いています。「成熟というと,若い時にはデコボコとあちこちが尖っていたものがだんだん滑らかになっていくようなイメージがあります。最終的には達観して,もはやちょっとしたことには動じなくなっていく。しかし同時に,非常にアグレッシブな面も持っているのが私が理想とする成熟の姿です」。この箇所を引用しながら,私はなるほどと同感してしまいました。私自身は年を重ねて寛容になった部分はそれなりに増えているのですが,アグレッシブな部分が以前より先鋭化したように思います。

 林さんは,「心がければすぐにスイッチを探せそうで,なおかつもっとも大事だと思う4つの成熟のテーマ」があるというのです。それらは,①人間関係の心得(いざという時に自分のために喜んで力を貸してくれる人がいるかであり,人間関係は成熟にとって最大の財産です)。②世間を渡る作法(世の中のマナーに従うことや世間と折り合っていくことは成熟の条件であり,結局は得になる。そして,ジャケット着用の場にTシャツで現れる人を批判しています)。③面白がって生きる(いろいろなことを面白がって生きている人は後輩を勇気づけてくれるとともに,年をとっても好奇心をみなぎらせていられる人生はその人自身の生き方が素晴らしいことのあらわれなのです。ただし,楽しく生きるためには相応のお金も必要です,と)。④人生を俯瞰する(俯瞰力とは客観的に現在の自分を見極める力です。つらい時や悲しい時に自分を慰めてくれたり,笑いに変えてくれたりするので,俯瞰力を人生の味方につけておくと心強いと言います。林さんは,誉められると必ず「ちょっと待てよ,自分はこんなに評価されていい人間だろうか」と自分で自分をチェックするそうです)。たしかに,私も誉められるたびに,自己チェックが入るので素直に喜ぶことができない嫌な性格だと思っています。ですから“名誉ナンタラ”という称号は苦手です。

 「成熟のスイッチ」はこれら4つのテーマが章立てになっています。本稿では,今ハヤリの社会人基礎力に関連する「世間を渡る作法」の中から,私のお気に入りの箇所を紹介します。

 まず,「品性が試される時」のいくつかです。成熟した大人の心得として,会食の場面では「支払うのは誰か」という問題に敏感であれということです。支払いの基本ルールとして,求められて来た側が正客として奢られて,来ることを求めた側が支払うということです。友人・知人同士のワリカンという場合は問題がないのですが,気をつかわなければいけないのは,メンバー間の力関係が働いている時です。私は若かりし頃,タクシー料金240円分をワリカンにした上司のセンスを疑いました。

 「社交のタブー」があります。林さんの経験談があって,秋元康さんはふるまいが素敵なお金持ちの筆頭だということです。人を紹介するという行為には人間関係の繊細な部分が絡み合っているので,紹介してくれた人への配慮を忘れないこと。その場に招待されていない人がいた場合は「このあいだは楽しかった」などとは言わないこと,もらいものは2人になった時にお礼を言うことなどです。

 「話術のスパイス」では,「つかみ」のスピーチ術です。林さんは日本大学の理事長就任会見のあいさつは事前にかなり練習をされたそうです。心しておきたいことは,パーティーなどのスピーチは短いほうがいいこと,あまりに短すぎるのも問題なので,いかにコンパクトに言うべきことを言うかに心を砕くべきということです。林さんは短いスピーチは原稿にしないが,文学賞の選考などの長めのスピーチは1回書いて原稿にした上で暗記するそうです。原稿を読むために下ばかり向いている政治家をこき下ろしている夫がいるので,そうならないように注意しているのだそうです。

 「時間を制する者,世を制す」では,時間の使い方が上手な人は,「忙しいから」を言い訳にしないということです。優先順位を決めてやるべきことをきちっとこなし,その上で,自分が楽しいと思うことに時間とお金を費やすのです。林さんは会食では,約束の時間よりも随分早く目的地に着き,下座に座ってみんなの到着を待つそうです。つまりすき間の時間とひとりの時間を大事にすると,時間の感覚が変わり,人生の速度がゆっくりになるというのです。

 いかがでしょうか。

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