医学界新聞

看護のアジェンダ

連載 井部 俊子

2022.02.28 週刊医学界新聞(看護号):第3459号より

 結局,2021と題したカレンダーは壁に貼られることなく,2022のカレンダーに席を譲ることになった。2021年の暮れ,コロナ禍という言い訳のもと,私は一年半以上も訪れていなかった実家を意を決して訪れた。

 北陸新幹線に乗れば2時間くらいで到着する町に,私が高校卒業まで暮らした家がある。父が亡くなったあと,4年間ひとり暮らしをしていた母が亡くなり,以後,私の帰省を心から喜んでくれる人が誰もいなくなった家に帰るのはつらかった。「過去の記憶の不意うちに苦しみ」と小池真理子の著書の帯に書いてあったが,そのとおりの心象を毎回経験した。冬の冷たい北風とみぞれまじりの雨が降り続く日を,母はどんなことを思い暮らしていたのだろうかと,13年経った今も想う。

 年末に家に帰り,神棚のサカキを替え,仏壇には庭の椿を活けて,2022年のカレンダーに付け替えて,掃除をしてこようと,固く心に決める。決意が揺るがないように手帳にその日をマークして,自分との約束を果たした。

 過去の記憶の不意うちのひとつに,父の命日に母がお経を唱えていた光景がある。僧侶が読経する後ろにちょこんと座り,経典を開いて声をあげる。

無上甚深微妙法むじょうじんじんみみょうほう 百千万劫難遭遇ひゃく せんまんごうなんそうぐう我今見聞得受持がこんけんもくとくじゅじ願解如来真実義がんげ にょらいしんじつ ぎ」と唱えていた母の声が蘇る。

 このお経が「開経偈かいきょうげ」(今,出遭いました)であることを伊藤比呂美の著書で知った(『いつか死ぬ,それまで生きる わたしのお経』朝日新聞出版)。詩人である著者はこのように現代語訳にしている。

なによりもすばらしく
ふかくうつくしく妙なる法がここにあります
いのちは生き変わり死に変わりしますから
なかなか出遭うことができません
それなのにわたくしは今,出遭い
見て,開いて,ゆさぶられ
しっかりと心にとめました
目ざめた人の真実のことばを
解りたいと心からねがっております

 開経偈は,人々が集まって読経や礼拝を始める前に唱える偈であり,偈とは詩のかたちで書かれたお経のことであると伊藤さんは解説している。さらに「じんじんみみょう」という言葉に惹きつけられ,喉の奥の痺れるような感じがねっとりからみつき,「ひゃくせんまんごうなんそうぐう」までリズミカルにつながる。そして「がこん」から変調して,「我」が口をきりりと結んで,手を握りしめ,前を向い...

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