医学界新聞

看護のアジェンダ

連載 井部俊子

2022.01.24 週刊医学界新聞(看護号):第3454号より

 2021年11月,朝日新聞の1面広告欄(この位置をサンヤツと呼ぶことを私は最近知った)にあった「四半世紀を越えて……38刷出来!」という文字に目が止まった。1995年8月に第1刷が発行されて以来,2021年9月に第38刷が発行されるという本はいったいどんな本なのだろうかと思った。

 その本が『たった一人の30年戦争』である。著者は「1945年の終戦を知らずにフィリピン・ルバング島で戦い続けた」小野田寛郎おのだひろおさん,発行は東京新聞(東京新聞出版局)である。私は2021年11月28日から12月1日までの4日間,この本の世界にとりつかれていた。読み終わったあとしばらくの間もそうだった。「小野田さんが受け持ちの患者として私の前に現れたら私はどうするだろう」などと妄想した。

 小野田寛郎さんの略歴はこうである。1922(大正11)年3月,和歌山県生まれ。1939(昭和14)年春,旧制海南中学を卒業。貿易会社に就職,中国・漢口(現在の武漢)支店勤務。1942(昭和17)年12月,和歌山歩兵第61連隊入隊,1944(昭和19)年1月,久留米第一陸軍予備士官学校入校。同年9月,陸軍中野学校二俣分校で訓練の後,同年12月フィリピン戦線へ,以後30年,作戦解除命令を受けられないまま任務遂行。1974(昭和49)年2月,冒険家の鈴木紀夫氏と遭遇。同年3月,祖国に生還。1975(昭和50)年春ブラジルに渡り牧場を開拓,経営。1984(昭和59)年,「自然と人間の共生」をテーマに子どもたちのキャンプ「小野田自然塾」を開く。2014(平成26)年1月死去。91歳であった。

 戦後生まれの私にとって,戦争中であると30年間も信じて,フィリピン・ルバング島のジャングルの中で“使命”を果たそうとした小野田さんはどんなことを考え,どのような生活を送っていたのかということが私の率直な関心事であった。

 小野田さんは中国語ができたので,「東部第三十三部隊」を命じられた。その部隊が陸軍中野学校二俣分校であった。中野学校は参謀総長の直轄であり,スパイの養成機関であった。中野学校の教育方針は,「たとえ国賊の汚名を着ても,どんな生き恥をさらしてでも生き延びよ。できる限り生きて任務を遂行するのが中野魂である」というものであった。東京中野本校の分校として1944年9月,「南方戦線および本土遊撃要員養成」を目的に開校された中野学校の第1 期生230人は,戦局の緊迫化により謀報・謀略技術を3か月で詰め込まれ,半数が最前線へ送り込まれることが決まっていた。

 中野学校の教育のなかで,教官と浜松の街に外出して“候察こうさつ”の実地教育を受けるシーンがある(「候察」は広辞苑第7版には収載されていない。さしずめ現代の地区診断であろうか)。ある...

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