医学界新聞

看護のアジェンダ

連載 井部 俊子

2021.01.25 週刊医学界新聞(看護号):第3405号より

 その日,私が担当した看護管理者研修の一日が終わろうとしていた。最後の10分を残して,私は受講生からの質問や意見を求めた。教室はしんとしていた。

 しかし何か発言が出そうな空気が充満していた。そこで私は,その日の「当番」と聞いていた,前列に座っていたAに発言を促した。Aは手を振って,発言はないと意志表示した。そうこうしているうちに授業の終了時間になったので,私は「ではこれで」と講義の終了を告げた。すると,Aはすくっと立ち上がって“口上”を述べ始めたのである。

 私は内心,これは当番としての儀礼的なあいさつだなと直感した。これまでこうした経験を多くしてきたからである。そこで私はAに「当番として述べるのか」と聞いた。「そうだ」とAは答えた。私は,「役割としてあいさつをしてもらう必要はない」と言って授業を終えた。

 講師控え室に戻るとプログラムの責任者が,「自分が指示したことだ」と言った。しかし文言はAが考えたものだという。確かに,Aの机の上に発表原稿が見えた。私は内心,Aには発言を求めたのであるから,Aの考えや意見を述べてほしかったと強く思った。

 当番のあいさつをさえぎった講義の終わり方について,その後しばらく私の中で尾を引いた。自分の思いを曲げて数分の時間を当番のあいさつに費やせばよかったのではないか,ケチくさいと思う半面,看護管理者サードレベルであるから儀礼的に指示されて発言するということにもっと批判的であってほしいという思いがせめぎ合っていた。

 三島由紀夫は『文章読本』(新装版,中公文庫,2020年)の中で,大蔵省に勤務していたころに大臣の演説原稿を書いた経験を述べている。「私はごく文学的な講演の原稿を書いたのでありますが,それははなはだしく大臣の威信を傷つけるものでありました。課長は私の文章を下手だと言い,私の上役の事務官が根本的にそれを改訂しました。その結果できた文章は,私が感心するほど名文でありました」。この名文は三島によると,「すべてが感情や個性的なものから離れ,心の琴線に触れるような言葉は注意深く削除され」「一定の地位にある人間か不特定多数の人々に話す」ための独特の文体でつづられていたのである。

 生気を欠いた,模倣的で陳腐な文体や言い回しを,英国の作家ジョージ・オーウェルは「政治的方言」と呼んでいたと朝日新聞編集委員の福島申二は紹介している(2020年11月8日付朝日新聞「日曜に想う」)。演説者の喉から音は出ているが「自分で言葉を選んでいる時のような頭の働きがそこに加わっていない」と指摘する。さらに,菅義偉首相の答弁にも言及する。官房長官時代に連発した「差し控える」「問題ない」「当たらない」は自前の言葉で説明する手間を避けた感があるとした上で,「木で鼻をくくったようなあしらいはある種の威厳をもたらしたが,首相となればそれでは通るまい。」と言う。

 それからしばらくあの時の「当番のあいさつ」にこだわって新聞をみていると,『「来賓のあいさつ」いつまで』と題する論説に遭遇した(2020年12月2日付朝日新聞「多事奏論」,高橋純子)。菅首相の官邸エントランスの会見では「手元の紙に目を落としつつ,一方的にご託宣を授けるばかり」という光景から,筆者は子どものころに聞いた運動会や卒業式を連想する。それが「来賓あいさつ」である。「地元の名士らによる文字通りに型通りのあいさつ。子どもたちに特段の思い入れがあるわけではないから,自分なりのメッセージを届けようという意欲や工夫は見られず,“みなさん頑張ってください”なんて基本的には他人事,子どもの側にも“このおじさん,なんか偉いんだな”ということしか残らない,あれ,あれ,あれ」。筆者は「たどたどしくとも言葉でもって民と組み合う意志と覚悟を持たない者は,政治リーダーたり得ない。そばにいる。見捨てない。これが,政治リーダーが発すべき何よりのメッセージだ」と断言している。

 看護管理者が,看護管理者として人前で“あいさつ”する時は,「政治リーダーたり得る」気概が必要であろう。

 看護管理者研修における「当番のあいさつ」の位置付けや在り方について議論することは,絶好の“教材”となる。当番とは何か。「当番のあいさつ」はどのような意味や価値があるか。果たして当番のあいさつは必要なのか。講師はどのように受けとめているのか。

 私は「当番のあいさつ」を「させていただく」という精神性にはどうも抵抗を覚える。ここで「当番のあいさつ」の稿を終えるにあたり,詩人・石垣りんの『表札』を引用したい(田中和雄編『ポケット詩集』,童話屋,1998年)。
 

自分の住むところには
自分で表札を出すのにかぎる。

自分の寝泊りする場所に
他人がかけてくれる表札は
いつもろくなことはない。

病院へ入院したら
病室の名札には石垣りん様と
様がついた。

旅館に泊まっても
部屋の外に名前は出ないが
やがて焼場の窯にはいると
とじた扉の上に
石垣りん殿と札が下がるだろう
そのとき私がこばめるか?

様も
殿も
付いてはいけない,

自分の住む所には
自分の手で表札をかけるに限る。

精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
石垣りん
それでよい。

(初出:思想社,1968年)

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