医学界新聞

連載

2009.10.26

看護のアジェンダ
 看護・医療界の“いま”を見つめ直し,読み解き,
 未来に向けたアジェンダ(検討課題)を提示します。
〈第58回〉
「やさしい」看護とは何か

井部俊子
聖路加看護大学学長


前回よりつづく

 今年からそう呼ばれるようになった“シルバーウィーク”の休みに会った友人が,肘の手術をしたいが,以前に入院したことのある病院は看護が嫌だから入院したくないのだと話していた。

 世論調査では,80%の人が望ましい看護師像として「やさしさ・思いやり」を挙げている。過去に行われた「やさしさ」の研究では,看護者がケアを決まりきった日常業務としてただ単に与えられて行っている限りは,患者はそのような看護者を自分にとって意味のあるかかわりをしているとは認知しない,と指摘している(大川,1995)。

「やさしさ」の受容体理論

 病棟の看護管理者として勤務していた際に患者や家族から,「ここの看護師はやさしい」という「評価」を,「釈然としない思い」で受けとめていたことをきっかけとして,患者が認知する「やさしさ」を追究した研究がある(笠松,2008)。この研究は2つの内科病棟で行われた。承諾の得られた入院中の患者に,看護師に対して「やさしい」と感じた経験が生じたらメモをしておいてもらい,研究者が訪ねていって,患者の状況や気持ち,「やさしさ」体験をもたらした看護師とその看護師の行為を尋ねるというものである。次に,患者の「やさしさ」体験に登場した看護師に対して,どのような場面であったのかを語ってもらっている。

 調査期間中,9名の患者が研究参加に同意した。そのうちの4名は初めての入院であった。「やさしさ」体験があった患者は6名・11場面であり,「やさしさ」体験がなかった患者は2名であった。1名は研究参加2日目に,自分の治療のことで余裕がないという理由で研究参加を辞退している。

 この研究は,患者からみた「やさしい」看護にいくつかの興味深い知見をもたらしている。

 まず,「やさしい看護」という発想は,看護師の世界には存在しないということである。そのことは,患者が語る「やさしさ」体験に登場する看護師たちが異口同音に,患者がやさしさを感じてくれるとは思ってもみなかったと語っていることでわかる。しかも,「やさしさ」体験は,短い時間の出来事であり,言葉,触れる,温かさを与えるなどに代表される。

 そうすると,「やさしさ」体験を認知するのはもっぱら患者側である。この現象を笠松論文では次のように考察している。看護師が「やさしさ」体験を提供しようと意識していない看護を,患者が「やさしさ」として認知し,その認知が短時間で行われ患者の心に響くという体験は,受容体理論の刺激伝達物質と受容体の関係に類似している。〈中略〉看護師(神経細胞)は,経験や知識を用いて(細胞外の材料を食べ,神経伝達物質に合成し),看護(神経伝達物質)を提供する。患者(受容体)は,看護を受け取り,「やさしさ」に変換して,「やさしさ」体験が認知される。ここで,患者(受容体)に合致する看護(神経伝達物質)を提供しないと,「やさしさ」という電流は流れないということである。

「患者」ではなく「一人の人間として」向き合う

 患者の持つ「やさしさ」受容体の特性は,「やさしさ」体験を認知しなかった患者の語りが教えてくれる。つまり,患者の抱えている問題やニーズにあった働きかけがなされなかったため不安が軽減されず安心がもたらされなかった状況や,不安の原因となる問題は解消され退院後のことに関心が移っている患者には,「やさしさ」電流が流れない。そうすると,「やさしさ」受容体は人間の持つ脆弱性を核にしているようである。

 患者の認知する「やさしさ」体験は,顔のない「やさしさ」体験だと笠松論文は指摘する。看護師の氏名が特定されていた「やさしさ」体験は,11場面中5場面と少なかった。「やさしさ」体験は,「誰が」よりも「どのような」体験であったかが中心となって「感知」されるのである。

 患者の認知する「やさしさ」を成立させる看護は,「患者」ではなく「一人の人間として」向き合うといった最もシンプルで最も難関な課題に直面するのである。これには受容体理論で用いた「細胞外の材料を食べ,神経伝達物質に合成」する過程が決め手になると思う。

つづく

文献
1)大川貴子(1995).“看護者の行為”に対する患者の認知.看護研究,28(2),21-38.
2)笠松由佳(2008). 患者が認知する「やさしさ」を成立させる看護の構造化.聖路加看護大学大学院看護学研究科修士論文.
 http://hdl.handle.net/10285/1368