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第3163号 2016年2月22日


私のキャリアチャート

横軸に年齢,縦軸に充実度・幸福度を取った「キャリアチャート」とともに,さまざまな領域で活躍する看護師が仕事やライフイベントを振り返ります(不定期リレー連載)

【Chart2】

阿部 幸恵(東京医科大学病院シミュレーションセンターセンター長・教授)


前回よりつづく

 自分のキャリアを振り返ると,実に面白い。私の幼いころは,家庭に電話はなかったし,コンビニ,ファミレス,カップヌードルもなかった。女性の役割については「男は仕事,女は家事」という認識が当たり前で,ままごと遊びもその役割分担で行うのが定番だった。小学生のころ,友人の母親のほとんどが専業主婦で,家にいた。共働き世帯が片働き世帯を逆転したのが1997年,今や女性も自分のキャリア形成を考え進路を選ぶ時代となった。

 この数十年で日本人の生活スタイルや価値観は大きく変わった,と痛感する。私が高校生だった1980年代は実にのんびりしていた。とりわけ優秀か,もしくは家が貧しくて働かなければならない女子生徒は別として,多くは仕事を結婚までの腰掛のようなものとして進路を考えていた。私はといえば,とりわけ優秀でもなかったが,小学校の先生になると決めていた。これが私の最初のキャリアデザインだ。それまで母に「男女の別はない,これからは女も社会に出る時代」と言って育てられたこと,中学校で数学を教わった女性の先生がかっこよく,女性が仕事を持つことの素晴らしさを私たち女子生徒にいつも話してくれたこと,物理と化学を教わった女性の家庭教師も男性顔負けの理系才女で,「理系は男性だけのものなんて考えは古いわよ」と聞かされていたことが影響したように思う。

 しかし,デザインどおりいかないのが人生で,大学受験に失敗。私の前に開かれた道は,模試を受けるような気持ちで受験した看護学校への入学だった。これは相当な打撃だった。当時の私は,看護師はきつくて汚い仕事だとイメージしていたからだ。どん底で私が考えたそれからのキャリアデザインは,自分がキャリアを積むのではなく,キャリアのある男を見つければよいという短絡的なものへと変わった。そんなわけで,看護学校の3年間は恋愛三昧。多くの教員や先輩から「成績不良者」というレッテルを貼られた。学生時代,唯一学生らしい活動と言えば,上智大学で月1回程度開催されていた「生と死を考える会」に通い学んだことぐらいだ。この学びが20年後に博士論文につながるなどとは,当時の私は,想像だにしなかった。

 看護学校卒業後は,都内の循環器専門の病院に就職した。その病院では,医師や先輩から専門職者としての誇り,喜び,そして自ら学び考えることの大切さを教わった。看護の仕事が大好きになった。いつしか私は,看護師として多くの症例を経験し,後々には教育の分野へと進みたいというキャリアデザインを描くようになり,大学病院の救命部へと職場を変えた。多様な症例への対応,数多くの看取り,チーム連携の重要性などを学び,ここでの経験が今の自分を支えている。

 30代からは教育の道に進み,教えることを学ぶため大学にも入学した。教育心理学の師との出会いが私を大学院進学へ導き,研究者の道を開いた。博士論文は,「生と死の教育」「物語」「看護」を組み合わせたもの。この論文には,学生時代の「生と死を考える会」での学びや,その後の病院での経験,学生時代に非常勤で働いた在宅,老人ホーム,保育園などさまざまな場所での看護の経験が凝縮されている。

 学位取得後は医学教育にかかわり,今は医療者のためのシミュレーション教育の道を,院内外の素晴らしい先生方と共に歩んでいる。これからの私のキャリアデザインは,病院に限らず,地域で活躍する医療者や,在宅で介護をされている市民の皆様と共に考えていくことだ。今振り返って思うこと,それは,キャリアとはその時に意味が見いだせなかった“点”のような経験(失敗も成功も)が,時を経て意味を持つ線や形になっていくこと。そしてそれは,周囲の方々とのご縁によって形作られるものだということである。

つづく

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