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第3217号 2017年3月27日


私のキャリアチャート

横軸に年齢,縦軸に充実度・幸福度を取った「キャリアチャート」とともに,さまざまな領域で活躍する看護師が仕事やライフイベントを振り返ります(不定期リレー連載)

【Chart3】

佐藤 紀子(東京女子医科大学看護学部教授/同大学大学院看護学研究科教授・看護職生涯発達学)


前回よりつづく

 私は2004年に「看護職生涯発達学」という領域を新しく立ち上げた。学部では「キャリア発達論」を担当し,大学院では院生と共に看護実践とその可能性を模索している。生涯を通して発達し続ける可能性を持つ看護職について探究を続け,知的好奇心を毎日刺激されている。認定看護師教育,さらには附属病院看護部との共同プロジェクトにも参画し,急性期医療を担う看護職の可能性についても多くの示唆を得ながら,チャレンジを続けている。

 私が生まれた1950年代は,日本が戦後の復興に向けて動き出した時代だった。父はサラリーマン,母は専業主婦で,私の洋服のほとんどが母の手作りであった。子どものころから本を読むことと歌うことが大好きだった。父の転勤で生まれ故郷の札幌から東京に移り住んだころからたくさんの記憶がある。中学3年の夏には千葉県某市から広島市に引っ越し,高校3年の冬まで過ごした。原爆の爪痕が残る街・広島の平和記念公園や,当時「原爆スラム」と言われた場所の風景は,今も鮮明に蘇る。高校卒業後の進路選択では,声楽に関心があったが,なりたい気持ちを持ち続けていた看護師の道を選んだ。看護系大学の受験に失敗し,看護学校に入学。寮生活は私を鍛え,同級生は苦しいときにいつも支えてくれる大切な友人となった。

 20代は混沌としていた。2人の子どもを産み,職場は3か所変わって働いた。看護がわからなくなり,看護研修学校教員養成課程で1年間学んだ。開眼させられる毎日で,今の私の基盤はそこで出来上がったと思う。卒業後は看護学校の小児看護の専任教員として4年間過ごした。理論知に目覚めた一方,自分の臨床力のなさに気付いた。看護の奥深さにのめり込み,仕事を辞めるという選択肢はこのころには消えていた。

 30代は新設病院の主任・婦長として臨床で多くの経験を積んだ。理論知を実践の中で意図的に用い,手応えを得た経験はかけがえのない時間であった。看護研修学校の看護研究学科では,初めての研究に取り組んだ。臨床で仕事をしながら通信教育で学士も取得。学ぶ過程で多くの友人との出会いがあった。

 30代の終わりに父が重度の脳梗塞を患い,右麻痺・失語症となった。家事と子育て全てを担っていた母は父の介護に専念することになり,私は退職に至る。しかし,看護師を続けることに迷いはなく,修士課程の進学に向けて準備をした。修士課程では看護管理学を学び,後に私の最初の著書❶『変革期の婦長学』(医学書院)へとつながった。修了後は短大で成人看護学の助教授の職を得た。現在の職場だ。学生との日々は新しい発見の連続で,特に実習期間は重要な学びの機会となった。

 40代には,看護教育の大学化が進む中,仕事を続けながら博士課程で学んだ。7年かけて50歳のときに学位を取得。そのことで生活が少し落ち着いた。

 50代は❷『看護師の臨床の「知」』(同),❸『その先の看護を変える気づき』(共著,同)を出版。そして,冒頭の「看護職生涯発達学」を創設し,院生と共に走り続けた。60代になり,4冊目となる❹『師長の臨床』(同)を出版した。本書の行間には,学部生・院生,認定看護師教育センターで学ぶ学生,卒業生や修了生,そして全国で働く看護師の存在がある。現在は,「看護職生涯発達学」の院生の研究成果をまとめる仕事の傍ら,4月から『看護教育』誌に連載の「すべって,転んで,立ち上がるために――看護職生涯発達学から」に取り掛かっている。

 看護学の実践から生まれ続ける理論の可能性を確信し,生涯学び続けられる職業を選択したことで私のキャリアは形成されてきた。私だけでなく,全ての看護師が同じように,看護の意味を自身に問い続けながら成長しているものと実感している。

(つづく)

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