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第2809号 2008年12月8日


〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第141回

格差症候群 ヒヒ真似の勧め

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2807号よりつづく

 もう,50年近く前の話になるが,テレビで「少年ケニヤ」という番組が流行ったことがある。筋はあらかた忘れてしまったが,「少年」という名詞に国の名を続けた風変わりなタイトルだけは,今でも強く記憶に残っている(なぜか,「ケニア」ではなく,「ケニヤ」であった)。

「格差症候群」は動物界にも

 今回の話題は,ロバート・サポルスキー(51歳,スタンフォード大学生物学・神経学教授)の研究にまつわるものであるが,彼は,「中年ケニヤ」と呼ぶのがふさわしいような,個性的な科学者である。専門は,慢性的ストレスが身体に及ぼす生物学的影響であるが,1970年代後半から頻回にケニアを訪問,ヒヒ(baboon)のコロニーを対象とした研究を続けてきたことで知られている。彼が,ケニアのサバンナで,ヒヒの診察・採血をする様子をテレビで見たことがあるが,鎮静剤入りの注射器を筒に仕込み,「吹き矢」としてヒヒに打ち込む様は実にユーモラスだった。射程はわずか10メートル,ヒヒが油断する隙に「吹き矢」を発射,命中したあとは,「コテン」と倒れるまでヒヒを付け回すのである。

 サポルスキーによると,倒れたヒヒをすぐに連れ去るのは「御法度」である。「もし,エイリアンが現れて突然人間を連れ去ろうとしたら,回りは黙っていないだろう」と,彼は説明するが,まず倒れたヒヒにぼろ布をかぶせ,仲間の視界から遮断することが「誘拐」を成功させる秘訣なのである。誘拐後,速やかに血圧測定・採血などを実施,ヒヒの健診を完了させる。

 彼が研究対象とするケニアのヒヒ・コロニーは,食環境が非常に恵まれているので,食べ物を探して一日中苦労する必要がない。毎日,自由時間がふんだんにできるのだが,では,ヒヒたちが,ふんだんにできた自由時間を何に使うかというと,「お互いの暮らしを不幸せにすることに使うのだ」と,サポルスキーは言う。体が大きく,力が強いボス・ヒヒ(オス)は多数のメスを性のパートナーとして占有するだけでなく,力が弱いオスに暴力をふるい,その力を誇示する。一方,暴力をふるわれる立場のヒヒは,そのうっぷんを晴らすかのように,自分より力の弱いオスに暴力をふるったり,あるいは,かいがいしくボスの「毛づくろい」をすることで親分に取り入ろうとしたりするのである。

 かくして,コロニーの中に,ヒヒ間の上下関係(ヒエラルキー)が成立するのだが,サポルスキーによると,個々のヒヒにとって,自分がヒエラルキーのどこに所属するかによって,その健康度が大きく変わるという。たとえば,ヒエラルキーの下位に所属するヒヒほど血中糖質コルチコイド値が高く,社会的地位が低いことに起因する慢性的ストレスの影響が,免疫能・耐糖能の低下や高血圧・動脈硬化症の増加等の健康被害に結びついているのは,ヒトの場合の「格差症候群(status syndrome)」と変わらないのである(註1)。

ヒヒ社会から消えた「格差症候群」

 ところで,サポルスキーが観察を続けてきたコロニーの一つ,Forest Troopの有り様が変わったきっかけは,1980年代初めに,人間たちのゴミ捨て場が近くにできたことだった。その結果,ゴミ捨て場を漁って人間の食べ残しを食べるヒヒが現れるようになったのだが,人間の食べ残しを食べるようなグルメ志向の強い(つまり,食い意地の張った)ヒヒは,なぜか気性の荒いヒヒに集中した。しかし,グルメ志向を満足させることに夢中だったヒヒたちは知る由もなかったが,不幸なことに,人間たちの食べ残しは結核菌に汚染されていた。かくして,人間の食べ残しに手を出したヒヒが,食い意地が張っていたがために結核で死ぬという悲運に見舞われる一方で,Forest Troopのコロニーにとっては,構成員から気の荒いヒヒが消えるという社会的変化が招来されたのだった。

 当然のことながら,気の荒いメンバーが消えてしまった後,コロニーの「文化」はすっかり様変わりした。ヒエラルキー間の暴力沙汰が激減,「思いやり」や「いたわり」の行為が目立つ,平和な社会が実現したのである。それだけでなく,ヒエラルキー上下間の血中糖質コルチコイド値の違いも消失,社会的地位の違いに起因するストレスが著しく小さくなったことが示唆されたのだった(註2)。

 以前にも論じたように,いま,日本では猛スピードで格差が拡大,格差症候群に基づく健康被害の進展が心配されてならないのだが,私たちは,いったい,いつになったら,思いやりといたわりの社会を実現することで格差症候群の問題を解決したヒヒたちを真似ることができるようになるのだろうか?

つづく

註1:格差症候群については,本連載128133回で論じたが,霊長類における格差症候群についてはサポルスキーの総説(Science308:648‐652, 2005)が詳しい。
註2:Sapolsky RM, Share LJ(2004)A Pacific Culture among Wild Baboons: Its Emergence and Transmission. PLoS Biol 2(4):e106 連載一覧