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  • 私を変えた,患者さんの“あのひと言”(吉岡成人,小倉加恵子,金子祐子,余宮きのみ,多胡雅毅,能瀬さやか)

医学界新聞

寄稿 吉岡成人,小倉加恵子,金子祐子,余宮きのみ,多胡雅毅,能瀬さやか

2024.09.10 医学界新聞(通常号):第3565号より

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 日々の臨床現場で交わす会話が患者さんにとって励みや救いとなり,生きる力につながることは少なくありません。同じように,患者さんの何気ないひと言が,時として医療者の心やその後の道に大きく影響を与えることもあるでしょう。

 本企画では,これまで多くの患者さんたちと言葉を交わしてきた先生方に「今も心に残り,自分の医師人生に影響を及ぼしている患者さんの“ひと言”」にまつわるエピソードをお寄せいただきました。

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NTT東日本札幌病院 院長

 ナースステーションで診療記録を記載しているときのことです。病棟の受付を担当しているスタッフから受話器を受け取ると,電話交換手が「患者さんからのお電話です。おつなぎします」と伝えました。20年以上も前のことです。当時は不審電話もあまりなく,患者さんから主治医に直接連絡があることは珍しいことではなかったように記憶しています。

 20歳代前半の女性で1型糖尿病の患者さんからの電話でした。

 「吉岡です」と答えると,「先生,私悔しい……。忙しいときに電話をしてごめんなさい。でも,先生に聞いてほしいの……」とのことでした。わずかな沈黙の後で,市役所の採用試験の面接の席で人事担当者から「あんたは糖尿病でインスリンを注射しているんだよね。糖尿病は自己管理能力のない人がなる生活習慣病で,しかもインスリンは低血糖を引き起こす危ない薬だ。それを1日に4回も注射しているなんて危険極まりない。幸いあんたは見てくれもいいし,仕事なんて考えないで,同じ病気の男を見つけて,早く結婚でもしたほうが良いんじゃないか」と言われ,とても悔しかったと涙ながらに伝えてくれました。話を聞いていて,途中から吐き気を催すほどの嫌悪感を覚え,激しい怒りが湧きました。

 1型糖尿病の発症に生活習慣は関連がありませんし,内因性インスリン分泌能が枯渇した状態で,インスリンの頻回注射を行うことは生命の維持に必須な治療です。かわいい顔をしているから,同じ病気の男と結婚して家事をしていろというのは暴言以外の何ものでもありません。しかし,当時の私には「つらかったね……。誤解だよね。あまりにもひどい……」と繰り返すことしかできませんでした。

 患者さんを力づけることもできなかった私は,ある新聞社の編集局宛てに,1型糖尿病の患者さんに対しての社会におけるいわれのない差別の現状について知ってほしいという内容の手紙を書きました。すると数日後に新聞社から連絡があり,500字程度の短い文章にまとめてもらえれば,読者からの「声」という欄で掲載したいとのことでした。やり場のない憤りを原稿用紙1枚程度にまとめることは難しかったのですが,感情を抑えたコンパクトな原稿を送付しました。翌々日には新聞社から電話があり,担当者が若干の手を加えた形で掲載されました。

 私が医師となり内分泌代謝分野の専門医となった1990年代はインスリン製剤も注入デバイスも不十分なもので,血糖の管理状況を良好に保つことは極めて困難でした。若い1型糖尿病の患者さんは常に低血糖,高血糖を気にかけ,1型糖尿病であることを隠さなければ就職が難しい時代でもありました。いまでも,生命保険に加入することが難しい,住宅を購入しようと思っても銀行でローンを組めないことがあるなどの現実があります。

 日本糖尿病学会では2020年頃から糖尿病を持つ人たちへのスティグマが大きな社会問題であるとして,2024年の年次学術集会においては患者さんたちと共に考えるセッションが設けられました。しかし現実の社会には,いくつもの解決すべき大きな問題が横たわっています。

 40年を超える臨床医としての毎日の中で,「先生,私悔しい……」というひと言は忘れられない言葉です。“Language matters, language reflects attitude, language creates reality (言葉は重要であり,言葉は態度を反映し,言葉は現実を創り出す)”などとも言われますが,患者さんとの言葉のやりとりを大切にする感性は,臨床に携わる医師にとっては欠くべからざるものではないかと思います。


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鳥取県福祉保健部・子ども家庭部 /
中部総合事務所倉吉保健所 / 鳥取県立鳥取療育園

 小児医療に携わる者であれば,幼い患者からこうした言葉をかけられることは少なくないだろう。たくさんの語彙を持たない時期である。「大好き」にもいろいろな意味が内包されている。また,彼・彼女らの評価ポイントは,提供した医療に関係しないことが多い。が,どんな意味,評価にせよ,一医療者としてその言葉をうれしく思い,仕事のやりがいをも感じるものである。

 ありがたいことに私も,こうした声をかけてくれた患者さんが幾人かいる。その中に,胸の深くに刺さった「先生,大好き」がある。

 私は卒業大学にある小児神経の専門診療科に入局した。研修は小児神経学の臨床から始まり,半年後からは小児科ローテーターとして身体疾患の臨床を学び始めた。大学附属病院のため,腎臓グループ,血液・がんグループ,肝臓グループなど,専門チームを回りながら研修を積む。

 研修医がベッドサイドで提供できる医療は限られている。疾病や治療に関する勉強はもちろんしたが,目の前にいる「この子」に何かできることはないだろうかと,はやる気持ちが抑えられず,時間を作ってはベッドサイドに赴いた。その中に,固形腫瘍に罹患したAちゃんがいた。

 Aちゃんは,よくしゃべり,よく笑う明るく人懐っこい就学前の子であった。いつものように他愛のない話をしていた時,Aちゃんはベッドの上から外を見て,「ここのお空は三角なんだよ」と教えてくれるように言った。田舎の空は遮るものがないのだが,例外的に高い建物である病院,その外壁が空の縁を切り取っていた。何か月も,遊びたい盛りの子が暗い病室から角ばった空をただ見上げていたのか……。臨床現場に出たばかりの研修医にとって,ある種の心的衝撃であった。それからは,以前にも増して病棟に足を運ぶようになった。

 私がAちゃんを担当したのは,一連の治療の終わり近くであったため,その後まもなく寛解,退院となった。軽やかな夏服を着て,はつらつとした声でお礼を言い,明るい日差しの中に駆け出した様子が印象に残っている。

 翌年,私は関連病院で研修することになり,大学附属病院から離れた。ある日,かつての指導医から連絡があった。Aちゃんが腫瘍を再発し,再入院しているが回復が見込めない状態であると。すぐに会いに行かねばという衝動が湧き上がった。一方で,会っても何ができるわけでもなく,どのような立場で顔を合わせばよいのかわからない不安や,何様のつもりで会いに行くのか?という理屈っぽい自分がブレーキをかけ,病室を訪問できたのは連絡から数日たった週末だった。

 案内された病室はクリーンルーム仕様の個室で,ビニールカーテンが二重にかけられていた。その向こうに,Aちゃんが見えた。たくさんの管がつながり,ガーゼや包帯が顔や体を覆っている。私に気づいたAちゃんは,出血斑がいくつもある青白くか細い手をこちらに伸ばした。そして私にかけた言葉が「先生,大好き」であった。

 あれから年を経て立場も変わり,いろいろな役職もいただくようになった。ややもすると惰性や慢心が顔を出してくる。そんな時,胸に刺さったあの言葉が,私を立ち止まらせ,自省させる。これまで多くの患者さん・ご家族から,得難い多くのことを学び,経験させていただいた。与えられるばかりになっていないか,何か返せているのか,何が返せているのか,返せるように努めているか。研修医の私にAちゃんが見いだしてくれたものを,今も持ち続けられているだろうか。

 Aちゃんが最後に私にくれた言葉は,自分軸を見失わないために必要な楔となり,今も胸の深くに刺さっている。


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慶應義塾大学 リウマチ・膠原病内科 教授

 40歳代の全身性エリテマトーデスの女性。発症したのは彼女が高校生のときで,私もリウマチ・膠原病を専攻し始めたばかりの専修医でした。症状がやや非典型的だったため,リウマチ・膠原病内科を受診するまでに時間を要してしまい,具合が悪いだけでなく診断がつかないことにも大きな不安を抱いていました。私の外来を受診したときは,ループス腎炎によるネフローゼ症候群も発症していて,専修医の私でも重症度がわかる状態で,すぐに入院していただきました。指導医と相談しながら,全身性エリテマトーデスと診断し,速やかにグルココルチコイドの大量投与による治療を開始しました。

 当時は卵巣機能障害リスクのあるシクロホスファミドが標準的に用いられる免疫抑制薬で,使用を伝えた際は未来の挙児より命と腎臓のほうが大事だからと,涙ぐみながら決意してくれました。彼女が治療を頑張るそばで,お酒好きのお父さんは断酒して回復を祈りました。その後,治療が奏功して完全寛解を達成することができました。

 あれから25年もの年月が過ぎました。彼女は大学生になり,就職し,結婚し,2児の母になりました。その間,ずっと私の外来に通院してくれており,彼女が先日外来で発したのが「先生との付き合いも四半世紀になったね」です。多臓器障害を来す全身性自己免疫難病であるリウマチ・膠原病は治療も進歩して予後は格段に改善しましたが,依然として治癒は困難で,慢性経過をたどります。私自身,自己免疫病態,全身を診る診療科,慢性疾患などの側面に興味をもって選択した専門領域でしたが,患者さんの人生と伴走する診療科であることを改めて意識したひと言となりました。また,治療方針は,長期的な視野で患者さんの20年後,30年後,さらには50年後を意識して検討しなければいけないと,気を引き締め直しました。


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埼玉県立がんセンター 緩和ケア科 科長

 ある80歳代の胃がん末期の男性患者さんの,亡くなる3日前,最期の言葉でした。

 その患者さんと出会ったのは,私が緩和ケア医になって2年目の頃です。がん患者さんの苦痛をできるだけ緩和することをめざし,まい進していた時期でした。

 その方は積極的ながん治療が終了した後,私の緩和ケア外来に通院する,お元気な方でした。がん疼痛があっても鎮痛薬を使用したがらず,外来を訪れるたびに痛みを訴えては,鎮痛薬を拒否しておられました。そのことに対して,「痛みは取り除くべき」と漠然と考えていた当時の私は,無意識に「患者は病状を理解して,準備すべき」と考える傾向があったように思います。これは,患者の個別性を考えない医師の独り善がりです。

 今思えば,この方は最期まで希望をもって,死を意識せずに生き抜きたかったのでしょう。しかし当時の私は,この患者さんに対してやりづらさを感じていました。

 しばらくしてこの方は病勢が進んで入院し,いよいよ重度の痛みに苦しむようになりました。それでもなお,鎮痛薬を拒否されました。亡くなる3日前,その方の傍らに座り,痛みに対して「どうしますか」と尋ねる私。長い沈黙(と感じた)の後,患者さんが発した言葉,それが「お願いします」でした。

 その言葉は,まるで「私」に,あるいは「激痛」に対して敗北したかのような,白旗を上げたような言葉に聞こえました。その後,オピオイド注射を開始し,患者さんは苦痛なく亡くなりました。一言も発することなく。

 亡くなった後,今度は私が深い敗北感を覚えました。勤務時間中でしたが,一人になれる場所に行き,緩和ケアの目的は一体,何なのだろう? 私は何が間違っていたのか? と自問自答しました。そして,「緩和ケアは,患者の満足を得るためにある」という結論を見いだしました。

 このことがはっきりわかっていれば,この患者さんとの信頼関係を築いて早期にオピオイドを開始することができ,こんなにも痛みに苦しむことはなかったのではないかと思うのです。

 この出来事は私の医師としての最大の失敗の1つであり,その後の私を大きく変えました。鎮痛薬で鎮痛することは敗北ではないこと,むしろ希望であること,「希望とともに鎮痛薬を処方する」ことを追求する出発点になりました。「質の高い医療には患者との信頼関係が必要不可欠」。言葉にすると当たり前のことですが,それ以来このことを徹底的に追求している私の心には,敗北感に満ちた「お願いします」があります。


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佐賀大学医学部附属病院 総合診療部 教授

 臨床研修を終えて数年が経過し,ある程度のことが一人でできるようになった頃のことだ。50歳代の男性患者で,先天性の筋疾患を抱えていた彼は,四肢の筋力低下により寝たきりで,車椅子での生活を余儀なくされていた。移動や移乗を含め,日常生活動作はほぼ要全介助の状態だった。彼は心不全と肺炎で入退院を繰り返し,高血圧や糖尿病など複数の合併症も抱えていた。さらに腎機能も悪く,私は治療に非常に難渋していた。彼は半世紀にわたる闘病生活の中で,自分なりの生活や治療スタイルを確立していた。医師の指示に従うだけでなく,内服薬を自己調節し,食べるものを選択して,さらには独自の方法でリハビリを行うなど,医師から見ると決して良い患者とは言えなかった。若かった私は当初,彼に対して少しネガティブな感情を抱いていた。しかしながら,彼を数か月担当し,時間をかけて会話を重ねるうちに,私は彼のこだわりや価値観がわかるようになってきた。彼は笑顔で「病気は個性」と断言していた。そして,これまでの闘病生活の中で自身としっかりと向き合い,自宅で大切な家族と共に自分らしく前向きに生きることに最大限の価値を見いだしていたのだ。なによりも彼は頭脳明晰で,発する言葉がユニークで魅力的な男性であった。こうしたかかわりを経て治療の必要性をしっかりと説明し,彼に理解してもらうことで,良好な医師-患者関係を構築することができた。

 そんな彼がある日の外来で,「自叙伝ば書くけん,楽しみに待っとってね!」と笑顔で言った。私はとても驚愕した。なぜなら彼は一人ではペンを握ることすらできず,他人に座位をとらせてもらい,ペンを握らせた腕を手帳の上に置いてもらわないと執筆できない状況だったからである。この途方もない不可能への挑戦とも受け取れる彼のひと言は,私の心に深く響いた。

 また,「諦めたらいかん!」が彼の口癖でもあった。彼は何事にも前向きで,その口癖の通りに諦めない精神を備えていた。そのおかげでこれまでの人生でも多くの困難を乗り越え,強く生きてこられたのだろう。そして,自分が諦めずに必死に生きた証を書籍として残したいという想いが,彼の残された人生への気力と活力の源になっているのだと感じた。病状が思わしくない時期もあったが,彼は全身全霊を込めて執筆を進め,私は主治医としてできる限りサポートした。そして,彼はついに自叙伝を書き上げ,うれしそうに手渡してくれた。そのときの満足げで,どこか誇らしそうな彼の笑顔が今でも目に浮かぶ。その後も,私は病状について彼とさまざまな議論をしつつ闘病生活をサポートしたが,残念ながらその数年後に永眠された。

 彼の言葉から,私は決して諦めずに努力し続けることの重要性を学んだ。当時の私は診療のみに注力し,大学教員としての職責を果たすことができていなかった。私の幼少期からの座右の銘は「継続は力なり」であったが,彼の生き方に接することで,それをより強く意識するようになった。以降,私は教育や学術活動に一生懸命に取り組み,苦手だった英語学習も現在まで毎朝,何があっても欠かさずに続けることができている。さらに彼は私に,患者には患者自身の人生があり,そこに何よりも大切なものがあるのだという医師として認識すべき当然の事実を改めて教えてくれた。若いうちは,患者を何でも型にはめ,あるいは患者を疾患の一例としてとらえ,効率よく業務を行うことが最善だと信じ込み,オーダーメイドの医療は時間の無駄だと思うこともあった。ただ,どんなに良い薬を処方し,どんなに良い指導をしても,患者が薬を内服せず,自身の行動を変えなければ医療はうまくいかない。われわれ医療者は,このような当たり前のことを,忙しさにかまけて忘れてしまっていないだろうか。医師として本当に大事なことに気づかせてくれた彼のことを,彼が命がけで書き上げた自叙伝を読みながら,私は今でも思い出すのである。


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ハイパフォーマンススポーツセンター 契約研究員 /
国立スポーツ科学センター スポーツ医学研究部門 婦人科

 現役を引退した20歳代の元女性アスリート。現役中から厳格な体重管理を強いられ,低体重と無月経であったが医療機関を受診せず,本人も月経はないほうが楽だと思っていた。引退後数年かかりようやく自然月経は再開したものの,骨粗鬆症と診断された。20歳代に入ってから薬物療法を継続しているが,骨密度は上昇していない。

 最大骨量獲得前の10歳代で長期間の無月経や低体重を認める場合,骨粗鬆症のリスクが高く,20歳以降で体重増加や月経再開を認めても骨密度が同年齢の女性の平均値まで回復する例は少ない。つまり,このようなアスリートは,骨粗鬆症を一生抱え生活していくことになる。「当時の周りの大人たちを恨んでいる」。この言葉は,ある日,骨粗鬆症の治療で通院中に彼女が言ったひと言だ。

 大人が子どもに正しい知識を伝えることの大切さとその責任,そして未来ある子どもたちの異常を早期にスクリーニングする体制づくりの重要性を,彼女の言葉から改めて痛感した。最終的に自分の身体を守るのは自分だけであるため,決して他人任せにしないこともまた重要だ。彼女に対してはコーチだけでなく,保護者ですら現役中は競技を優先し減量を勧めていた。正常を知らないため異常に気付いていないケースも多いが,自分の身体の異常を正確に察知し,周囲に自分から伝えられるような教育も必要だと感じた。

 この元アスリートは,その後無事妊娠,出産することができた。出産報告のお手紙には,「無月経のほうが楽だと思っていたのは間違いだった」とつづられていた。現役時代から10年以上かけて,無月経を治療することの本当の意味を彼女に理解してもらえた気がした。

 もう一つエピソードを紹介したい。2012年に国立スポーツ科学センターに着任し,本格的にスポーツ医学に触れる機会を得た。着任後,産婦人科医として最初に診察したトップ選手から「次のオリンピックは,月経が重ならないようになんとかしたい!」と言われた。当時,産婦人科医としてスポーツ医学の道に足を踏み入れたものの,本当に需要があるのか,私がやるべきことはあるのかと不安に思いながらも着任したことが思い出される。当時,女性トップアスリートの婦人科に関する問題についての調査を行うと,さまざまな課題が明らかになってきた。約700人中91%のトップアスリートが月経周期と主観的なコンディションの変化を自覚していること,70%近くの選手に月経前症候群の症状がみられること,試合や練習日程に合わせて月経をずらせることを知らないトップ選手が約70%もいること……。そんな現状が明らかになった頃に聞いたこの選手の言葉は,産婦人科医としてスポーツ医学の分野でやるべきことがあると決意するきっかけとなった。

 この選手は今,現役を引退し指導者として活躍している。指導中の女子選手が月経関連の症状を訴える際には,自身の経験を生かし,積極的に受診を勧め産婦人科医へつなげる役割を担ってくれている。

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