医学界新聞

連載

2017.04.17



The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,“ジェネシャリスト”という新概念を提唱する。

【第46回】
「患者」と「患者以外」の二元論――患者にも“責任”がある

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 ぼくは「患者中心の医療」という言葉が昔から嫌いである。患者が中心ということは,「患者」と「患者以外(医療者など)」の二元論が生じるということを内意している。これは患者に特別な地位と立場を与えることを意味している。

 もちろん,患者は「患者」というレッテルを貼られない個人のレベルにおいては,自分を中心に人生を生きようと,構わない。良い悪いは別にして,それはぼくの関知するところではない。まあ,勝手にやればよいので,他人の生き方をぼくが四の五の言う筋合いではない。「俺中心の人生」。

 しかし,医療現場においては,患者Aは「医療」というパースペクティブにおいてのみの参加者である。「職業は魚屋だ」とか「趣味はゴルフ」とか「貯金はいくら」とか「好きなアイドルは○○」といった,Aさんのその他の属性は重要ではなくなる。少なくとも,医療に関連していない場合においては重要ではない。

 もちろん揚げ足を取れば,「魚屋」という職業がMycobacterium marinum(マイコバクテリウム・マリヌム;非結核性抗酸菌の一種)感染の診断に役立つかもしれないし,「趣味はゴルフ」が整形外科医の手術の「目標」設定に影響を及ぼすことはあるだろう。「貯金がいくら」が退院プランに大きな影響を与えることもあろうし,好きなアイドルのコンサートから逆算して退院日を決める患者だっているかもしれない。いるかもしれないが,それはどちらかというと,人の持つたくさんの属性の極めて例外的な「医療的」使われ方である。抗酸菌の話をした途端,患者Aの「魚屋」という属性の多くは削ぎ落とされてしまう。

 一般論で言えば,ある人物の属性の99%以上は,医療においては「まったく関係ない」話である。例えば,「昨日友人と交わした会話」とか「一昨日,暴落した俺の株式」とか。

 若手の医者で「患者を全人的にみて,その人の人生全体,心理社会的な側面も全部ケアするんだ」とか言ってるのを見て,昔は「お前に何ができる」とムカついていた。最近は「今は,それでいい」と答えることにしている。「今は,それでいい」は,もちろん「そのままでは,だめだ」という意味である。

 患者の属性にmindfulでなければならないのは当然だ。「Mindfulである」とは「俺の知らない患者の側面がたくさんあるに違いない」という自覚だ。外来で座っている姿やベッドで寝ている姿は,この人のごく一部にすぎないことに自覚的であることを意味している。

 そして,われわれは患者の友人でも家族でも親族でも配偶者でも親でも子どもでもない。患者は「これ以上立ち入ってほしくない」ゾーンを医療者に持っているかもしれない。普通は持っているものだ。ぼくが患者なら,必ず持つだろう。そういうゾーンを。医療者だからといってズケズケと乱暴に踏み入れてはならない。「患者中心の医療だから,われわれはそこまで踏み込むのは当然」みたいな「ならず者」になってはいけない。もちろん,踏み込まざるを得ないときはあるかもしれないが,それはおずおずと,申し訳なさそうに,やむを得ずやるのである。ふんぞり返って,胸を張ってやってはいけない。

 いつも言っていることだが,人生にとって健康や医療というのは,その人のほんの一部にすぎない。胸に手を当てて考えてみてほしい。皆さんは,自分の健康や自分への医療について,1日のうち,どのくらいの時間考えているだろうか。圧倒的に多くの時間を他のことに割いているのではないか(他の患者のケアについては「仕事」なので,ちょっと話が異なる。朝から晩まで,自分の健康や医療,ケアについて考えている人がいたとしたら,その人は「ビョーキ」です)。

 「医療者とは,おせっかいなものである」という言葉がある。相手が「おせっかいさ」を求めている場合はそれでもよいだろう。しかし「これ以上入ってこないでくれ」という人だっているかもしれない。このことは「ヘルシズムの呪縛から逃れる」(第29回/第3150号)で書いた。おせっかいとは「価値観の押し付け」であり,一般にネガティブなタームなのだ。一意的に正しい医療など,この世には存在しない。

 何が言いたいのかわかりにくい人もいるかもしれないが,要するに患者を特別扱いせずに,「チーム医療の一員に入れてあげたらいいんだよ」という話だ。患者を特別扱いするのは,ポジティブな意味でもネガティブな意味でも間違っている。

 ぼくは患者にいろいろ要求する。薬は飲み続けるべきだとか,タバコはやめたほうが良いとか,アポの時間は守るべきだとか,看護師を殴っちゃダメだとか(←実話)。

 患者もぼくにいろいろ要求する。もう薬なんて飲みたくないとか,タバコはやめられへん! とか,アポの時間を守れるような目覚まし時計を探せとか……(探しました)。

 ぼくは彼らの言い分も正当な意見として聞く。(正しく)薬を飲み続けることや,タバコをやめることが「健康に良い」ことにおいて,ぼくは(ほぼ)常に正しい。医者だから。でも,「君は薬を飲むべきだ」と「俺はもう薬を飲みたくない」のどちらの「意志」がより尊重されるかと言えば,それは後者だ。「タバコはやめられない」も同様だ。まあ,看護師を殴るのは許さへんけど。同僚に危害を加えることは認められない(一方で,家族へのDVや副流煙にどこまで医者が介入できるかは,微妙だ。実際的に)。

 ぼくらは「1人の患者」を診ている専属の医者ではない。他の患者にもmindfulでなければならない。だから診療時間を無限には費やせず,パーソナリティ障害の患者などには,わざとやや冷たく「今日はここまで」と線を引くことも大事になる。患者からはいつでも連絡をつけられるようにメールアドレスは教えているけど,携帯番号は教えない。ぼくのプライベート・ライフに入り込ませもしない。相手のプライベート・ライフも「医療に役立つところ」以外には入り込まない。入り込むべきでもないと思う。人口300人の村でコミューンを作る「ムラ」の医者になるのでない限り。

つづく

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