医学界新聞

寄稿

2014.01.13

【新春企画】

♪In My Resident Life♪
失敗の数だけ「経験豊富」に


 研修医のみなさん,あけましておめでとうございます。レジデント・ライフはいかがでしょうか。ミスをして指導医に怒られたり,コミュニケーションがうまくとれなくて落ち込んだりしていませんか?「失敗はしょうがないけれど,失敗にも質があって,上質の失敗をしたほうがいい。失敗は活かせばいいというのは一般論で,世界一になるにはできる失敗の数が限られている。徹底的に高いところで失敗することが大切だったと,今振り返って思っている」。この言葉は,世界陸上競技選手権大会400 m障害走において,2度の銅メダル獲得を成し遂げた為末大選手の言葉です。レジデント・ライフも限られたわずかな時間。たとえ失敗が続いたとしても,この期間に「上質の失敗」を重ねることで,一人前の医師に近付くのだと前向きにとらえましょう。

 今回お贈りする新春恒例企画では,著名な先生方に研修医時代の失敗談や面白エピソードなど,“アンチ武勇伝”をご紹介いただきました。

こんなことを聞いてみました
(1)研修医時代の“アンチ武勇伝”
(2)研修医時代の忘れえぬ出会い
(3)あのころを思い出す曲
(4)研修医・医学生へのメッセージ
松村 正巳
岸本 暢将
川尻 宏昭
金城 光代
今 明秀
井上 信明


ハリソン読破伝説の真相

松村 正巳(自治医科大学地域医療学 センター総合診療部門教授 附属病院総合診療内科副科長)


(1)研修医時代,『ハリソン内科学』は購入してもほとんど読んでいませんでした。私は,気に入った医学書を「買って満足」「持って賢く」と錯覚するタイプです。

 指導医になったころ,6週間持続する発熱と頸部リンパ節腫脹を伴った女性患者の診断がつかず,ハリソンの「リンパ節腫脹と脾腫」のところを何度か読み返しているうちに,最初の頁数を覚えてしまいました。その後,研修医J先生からリンパ節腫脹の鑑別診断について質問されたときに,「○□と△□は忘れないように。ちなみに,ハリソンの○△□頁に『リンパ節腫脹と脾腫』の記載があるから読んでおくとよい。ハリソンは実に良い教科書だよ」とアドバイスしました。J先生は「松村先生は頁数をそらんじるくらいハリソンを読んでいる。学生時代から読破していたようだ」と勘違いし,いつの間にか,研修医皆がそう信じていたようです。数年後,再会したときに「いや,実は……」と事情を話したところ,大爆笑になったのはいうまでもありません。

(2)私にとって忘れられない恩師は,臨床研修病院で腎臓内科・血液浄化療法を教えてくださった佐藤隆先生(パークビル透析クリニック院長)です。当時,臨床研修委員会委員長をされており,指導は極めて厳しく,研修医からは最も恐れられていた指導医でした。しかし,医学・医療の話から,人生をどう乗り切るか,はては喧嘩の作法まで,多くのことを教えていただきました。人生の岐路に立ったときには,常に相談に乗ってもらいました。研修終了時には「流れに逆らわず,流れに流されず,人生の達人になってください」とはなむけの言葉をいただいたのを今も覚えています。ただ,喧嘩だけはさっぱり強くなれず申し訳なく思っています。臨床研修を通じて出会った得難い出会いです。

(3)スティービー・ワンダーの「ユー・ウィル・ノウ」は,私が研修医のときにリリースされたアルバム『キャラクターズ』(1987年)の1曲目です。ちょっとつらいときは「いずれわかる 苦悩する魂よ お前もいつか知るだろう どんな難問にも解決法はあるものだ 信じなさい きっと私が示してあげるから」という歌詞を聴いてほっとしたのを覚えています。

(4)誰にとっても成功体験は気分が良いものです。一方,手痛い失敗は脳に痛みの記憶を残します。しかし,人は失敗からのほうがより多くのことを学んでいるはずです。自分へのフィードバックが,成功に比べはるかに大きい。「経験豊富」ということは,多かれ少なかれ,転んだり,ひやりとした経験,失敗をも含めた数多くの経験を指しています。臨床医学を学ぶ上で経験に勝るものはありません。失敗したとき,うまくいかないときは,次のステップへの良い機会だと思って乗り越えてください。謙虚な気持ちを持ち続ければ,必ず,良き医師になれると思います。


採血が苦手な私に差し出された両手

川尻 宏昭(国立病院機構名古屋医療センター 総合内科医長)


(1)(2)今から20年前,大学を卒業し,信州の病院に研修医として就職した。当時,ほとんどの同期が大学病院での研修を選んだ。でもなぜか,私はそうしなかった。信州の病院は,地域医療や農村医療で有名で,私の同期や先輩の中にも高い志を持って就職した者も少なからずいた。しかし,私にはそんな高い志があるわけもなく,たまたま見かけた夏期医学生実習のポスターにひかれて病院を訪れ,採用試験を受けてしまった。筆記試験や高名な院長先生と病院幹部の面接試験を,それなりに緊張して受けた後,「結果は1週間後に通知します」と告げられた。なぜか,その翌日に電話があり「合格です」と言われた。私は,素直に喜んだのだが,後に大先輩の医師から「そうか,おまえのときは,それでも1日は病院も待ったんだな。俺のときは,試験を受けて部屋を出て帰ろうとしたら,事務の人が駆け付けてきて“合格です”と告げられたんだ。そのときに,やばいところに来たなと思ったよ」と言われ,「そうか。そういうことか」と妙に納得したことを覚えている。

 そんな病院で,私の研修が始まった。私は,とにかく手技が苦手だった。採血,ルート確保,動脈穿刺,気管挿管。すべてが駄目だった。研修は消化器外科から始まり,私の仕事は,術前評価のための動脈採血だった。橈骨動脈からの採血がうまくいかない。動脈は触れるのだが,うまく穿刺できない。もともと不器用で,人の体に針を刺すことそのものが,怖くて仕方がなく,いつも手が震えていた。それでも,「これができなければ」と自分を奮い立たせ,立ち向かっていた。

 そんな私が,動脈採血ができるようになったのは,2つ上の先輩医師と,ラパコレ(腹腔鏡下胆嚢摘出術)のために入院していた女性患者さんのおかげだと思っている。女性患者さんは,「自分も美容師で,何度もうまくいかないことがあったから」と,両手を出して「いいよ。何度刺しても」と言ってくれた。そう言われたときに,恐怖と不安を伴う緊張感から,「何とかしなければ」という覚悟にも似た気持ちになぜか変わったのを覚えている。先輩医師は,「自分も手技は苦手なこと」「ただ,なんとなくするのではなく,どうすればよいのかを考えながらすること」「焦らずにじっくりと行うこと」「穿刺してからではなく,穿刺するまでが大切なこと」などを説明してくれ,こう具体的に教えてくれた。「穿刺する血管を左手の指で捉えるとき,その指先を立てて爪と指先の間に血管の頂点がくるように優しく触れる。そして,その真下にある血管を穿刺するんだ」。これを聞いたとき,正直よくわからなかった。爪と指先に血管の頂点がくる……? ただ,その言葉の意味するところを考えながら,その後穿刺をしていたら,あるときに「そうか」とわかる瞬間が来た。

 私は,今も手技が駄目である。こんな不器用な人間が「人の体に針を刺す」。そもそもその資格はないと思っている。できる限りしたくないが,行う必要があるときには,今でもあの研修医時代の不安や怖さがよみがえり,手が震えることがある。「やっぱり,医者は無理だな」と思うが,丁寧に教えてくれた先輩医師や自分の両手を出してくれた女性患者さんのことを思い出し,やるしかないと覚悟を決めている。

(4)医師は,さまざまな場での役割が期待される職種だが,その原点は,やはり「臨床現場」である。研修医時代に,患者さんと向き合い,怖さや不安を伴う経験をすることは,その後の自分を高めてゆくためにとても大切だ。私にとって,研修医時代を過ごした信州の田舎病院は,さまざま失敗を受けとめてくれ,技術や知識とは違う大切な何かを,なんとなくじわじわと教えてくれた病院であったと感謝している。


苦しかった研修医時代未熟でも日々前進あり

今 明秀(八戸市立市民病院 救命救急センター所長・臨床研修センター所長)


(1)私が医師国家試験に合格したのは1983年,ちょうど東京ディズニーランドがオープンした年だった。昨年で30周年を迎えたと聞くと,膨大な年月に思える。

 その年,私は故郷の青森県立中央病院で研修を開始した。同期は7人だった。半数は,外科あるいは内科のストレート研修。私を含めた残りは多科ローテート研修だった。

 外科から始まった研修医生活は苦しかった。歓迎会では,途方もない日本酒量で洗礼を受けた。どちらかというと,気取ったワインやマルガリータなどが好きだった細身の若輩者は,中性脂肪を蓄えた外科医たちに大歓迎された。今なら“いじられている”という表現が適切かもしれない。口のきき方がなっていないと怒鳴られ,頭からビールをかけられた。後につらい思い出となるスタートだった。

 2年目にもう一度外科を回った。受け持ちにがん患者が多く,抗がん剤治療も行っていた。薬剤のオーダーはオーベンが前日記載したものをまねて,その日の朝,指示簿に研修医が記入することが日常的だった。忘れもしない大腸がんの患者。私の指示した薬剤量は上限を超えていた。それに気付いたときは,患者の容態は下降線をたどっていた。私は外科部長室に呼び出された。なぜ,こんなに多い量の抗がん剤の注射を指示したのかと。知識不足と,見間違い,書き間違いだった。家族に謝罪し,どうにか許してもらえた。その後しばらく肉体的にも精神的にも苦しい日々が続いた。

 ある日の当直の時間帯だった。呼吸不全の患者に私は気管挿管を試みた。以前も使ったことがある鎮静剤を静注した。患者の呼吸はあっという間に停止し,すぐに喉頭鏡を口に入れ,喉頭展開をする。だが声門が見えない。患者の顔色が悪くなる。脈拍が早くなる。焦った私はそれらしいところにチューブを進めた。そしてバッグバルブで換気する。今ならこの設定では,悪い結果は手に取るように予想できる。だが私はいい結果を期待した。呼吸音の聴診は聞こえるような気がした。挿管後最初に胃の音を聞くのが大事なことはそのずーっと後で知った。バッグバルブで換気を続けると上腹部が盛り上がってきた。ナースが「食道だ」。その言葉でようやく失敗したことを私は認めた。患者の脈拍が落ちてきた。私はアドレナリンを注射した。そのときだった。年上の内科医が帰宅途中に救急外来前を通過した。私は助けを求めた。彼は私服を腕まくりして,素手で喉頭鏡を握った。そして簡単に気管挿管した。患者の顔色は戻り,危機を脱出することができた。Difficult airwayではなかったのだ。研修医の自分が未熟なだけだった。

(2)研修医時代はつらい思い出だけではなかった。産婦人科をローテートしているとき,熱心にお産を教えてくれた助産師とその後結婚した。

(3)「なんてったってアイドル」(小泉今日子の第一期ブーム)。あの時代驚くほど輝いていたアイドルでした。

(4)ゆっくりでもいいです。前に進んでください。手抜きをしなければ必ず上達します。


2度流した涙の訳は

岸本 暢将(聖路加国際病院 アレルギー膠原病科医長)


(1)「米国臨床研修は3年先を見て用意をしなさい」という先輩からの言葉を胸に,米国臨床研修を夢見て学生時代にUSMLE(米国医師国家試験)を受験した。努力すればどうにかなると。予備校で同じ目標を持つ他大学の同期と知り合い,6年次の年末年始,仲間5人と私の自宅に泊まり込みでハリソンの問題集を勉強したことを昨日のことのように覚えている。その後,沖縄県立中部病院,在沖米海軍病院で研修を行ったが,研修中多くのロールモデルとなる指導医や同僚からの指導に刺激を受けた。さらに米国臨床研修をめざした医師が集まる留学セミナーにも時間があれば参加し,先輩,同僚らの活躍を励みに自分のモチベーションの維持に役立てた。多くの先輩,仲間の助けもあり卒後4年目でハワイ大にて内科レジデントを始めることができた。

 日本を発つ前に,青木眞先生から「米国臨床研修を始めたとき,毎日,アメリカ人より30分から1時間は早く病院に行って仕事を開始し,言葉の壁を乗り越えた」という経験に基づくアドバイスもいただき,インターンと呼ばれる1年目の研修時には,毎朝4時半ごろから回診を行った。スタッフ,上級レジデント(2-3年目)のチームのメンバーが楽になるよう率先して仕事を行い,1年目研修終了直前に行われた研修終了パーティーにてIntern of the Yearに選ばれることができた。

 とても順調に聞こえるかもしれないが,ここに至るまでに2度涙を流している。1度目は医学部5年次のとき。恩師で小児科の小口弘毅先生(おぐちこどもクリニック院長)の紹介でオーストラリアのモナーシュメディカルセンターに1か月留学した際,宿泊していたドミトリーの共用食堂にいた留学生の中で英語を話す勇気が持てず,輪の中に入れずじまいで自室で閉じこもってしまった。そのとき悔しくて流した涙。

写真 私(中央)が上級医3年目のときに,当直の部屋で撮った1枚。左は1年目のインターン,右は医学生。
 2度目は,ハワイ大の臨床研修1年目,集中治療室での指導医回診時,自分がしっかりアセスメントして行っていたことを英語でのコミュニケーション不足で指導医に伝えきれず叱られ,集中治療室を出た。その後,隣室で流した悔し涙。それぞれ今でも昨日のことにように思い出される。いずれのときも友人,仲間に助けられた。

(2)インターン1年目,ある日の当直のこと。深夜にちょうど仮眠したところだった。すると午前3時に病棟の看護師から「先生,病棟で頭痛を訴える患者さんがいるのですが,アセスメントしていただけませんか?」と呼び出しがあった。医師として失格かもしれないが,“今寝たばかりなのに……”と正直ムッときた。しかし,同じチームで当直している上級研修医が私の不機嫌そうな顔をみて助言をくださった。「どうせ診にいかないといけないのだから気持ちよくいかないと損だよ。当直医・看護師からコールが来たとき,“よし”と思って患者さんを診察したほうが,“こんな症状で自分を起こして”とイライラしながら診察するよりも誤診が減るかもしれない。それに,なんといっても研修医として得られるものが増えると思うよ。イライラするとコメディカルも不快にさせてしまうしね」。この助言は今でも役に立っている。え,「今でもムッとしているのか」って? すみません。

(3)Shania Twainの「Forever and for always」。インターンのとき,毎朝4時過ぎに車で病院に向かう途中,ラジオから聞こえてくる明るい歌声。今日も頑張ろうと元気がでた。今でもこの曲を聞くと米国臨床研修医時代を思い出す。

(4)米国臨床研修のメリットは,真の意味で臨床経験と知識を習得できるばかりでなく,米国で多国籍文化に触れ,日本文化を再認識し,人生の新たな楽しみ,喜び,そしてかけがえのない交友関係を与えてくれていると実感できることだ。困難を幾度も乗り越えた家族との絆も強まったと思う。日本医学界にも“グローバルスタンダード”が求められている昨今,米国での臨床経験は人生最高の宝になることを確信している。それだけに,夢を持っている皆さんには,自分の可能性を信じて,決して夢を捨てず,数年先の目標を定めて絶えず挑戦し続け,ぜひともその夢を実現されるよう心から祈念し応援している。保険制度,医療費の高騰,医療過誤保険の高騰など,米国医療の問題点は多いが,もしまた生まれ変わっても筆者は絶対に米国臨床研修をめざすことだろう。


「自覚が足りない」甘えを見透かした指導医の言葉

金城 光代(沖縄県立中部病院 総合内科)


(1)(2)東北大学卒業後,大学関連の研修プログラムとは異なる,当時は研修病院としても新しい亀田総合病院にて1年目をスタートしました。

 当時,米国のトレーニングを終えて帰国していた女性指導医T先生から数々の叱咤をいただいたことをよく思い出します。

 夜間の救急外来からICUに入室された心不全患者さんについて,ひと通りの手技と処置を終え,カルテを記載しているときのことでした。深夜に入り,眠くて何を記載しているのかわからなくなってきた2年目研修医の私の様子を見ながら,彼女が隣で小刻みに手を振動させてイライラしている様子が伝わってきます。「あなたも私も早く家に帰りたいんだから,早く終わらせてよ」と耐えかねた様子で言いながら,「何を書いたか見せてごらん」と記載途中のカルテを取り上げられました。「話にならない,これじゃ意味がさっぱりわからないでしょう。こうやって書くのよ」と,私の記載した内容を全て破棄し,白紙の用紙にT先生がすべて書き直しをしてしまいました。

 手技も上手く行ってホッとしていたところだったのですが,2年目になってもカルテをまだ書けないのか,と悔しく不甲斐ない気持ちでいっぱいになりました。研修医室に戻り,夜中でもまだ居残っている研修医とのおしゃべりで気持ちが晴れてきたものです。

 ある朝,病棟で主治医として担当している,治療方針の判断が難しい患者さんについてのT先生との回診にて,プレゼンも不十分,方針も不十分な出来であるのを自覚しながら,T先生に問い掛けました。「採血の項目は何を出したらいいのでしょうか」「抗菌薬はどうしましょう」。T先生は「……」。その後,T先生はきれた口調で私に声をあげました。「主治医としての自覚が足りないよ。しっかりしてよ,あなたが主治医として方針を考えなかったら,この患者さんはほんとに死ぬよ」。誰かに方針を決めてもらいたい,自分ではこんな難しいことは決められない,という甘えが前面にでているのをはっきり見透かされて,血の気がさーっと引きました。

 研修医には2つのタイプがある気がします。1つ目は,自立心が強く,自分で判断し,指導医に意見を仰ぐのはいざというときにとっておくタイプ。2つ目は,自分で判断する自信を欠いていて,経験が十分に備わって初めて判断をしたいと考える,どちらかというと慎重派。私は後者だったと思いますが,毎日こんなに厳しくも温かく指導してくださったT先生を忘れることはありません。

写真 ベッドサイドにてStein先生から指導を受ける。
 もう一人の大切な指導医は,当時亀田総合病院に指導医として在日していたGerald H.Stein先生です。症例をどう考えたらいいのか,人に聞かないと自分の考えが正しいのか不安で仕方ないことがしばしばありましたが,Stein先生から教えていただいた内科医としての基本が大きな支えとなりました。ベッドサイドにて患者さんを一緒に見に行ってくださり,所見を一緒に確認してもらったこと(写真)。プロブレムリストを作って,問題点を整理すること。これらの基本的アプローチを研修期間に教えていただけたのは一生の財産になったと思います。

(4)研修中は身体的にも精神的にも自分が試される,とても貴重な時間です。賢人の残した言葉は現在を生きるわれわれの支えとなりますが,弘法大師の次の言葉が研修中も今も心に響きます。

 「心暗きときは即ち遇ふ所悉く禍なり。眼明らかなれば即ち途に触れて皆宝なり」(『性霊集』)。

 自分の心の眼が暗いときは,出会うものすべてが災いと感じる。自分の心の眼が明るく開いていれば,進んでいく道で出会うものは皆宝となる,という意味でしょうか。


救急カンファでの大活躍(?)

井上 信明(都立小児総合医療センター 救命・集中治療部 救命救急科医長)


(1)私は天理よろづ相談所病院と茅ヶ崎徳洲会病院(現・湘南藤沢徳州会病院)の両施設での初期研修をはじめ,その後米国や豪州を含め卒後14年間にわたり研修医生活を送りました。

 最初に初期研修を行った天理よろづ相談所病院では,通称「朝カン」と呼ばれる名物症例カンファレンスが週に3回あり,さらに土曜日には救急外来で問題となった症例を共有する「救急カンファ」もありました。前日入院した患者さんの治療方針等について話し合う「朝カン」は,プレゼン内容を完全に覚えて発表する緊張の時間ですが,自分の失敗が衆目にさらされる「救急カンファ」もつらいものがありました。私は朝カンで華々しくプレゼンデビューする同僚を横目に,先にこの救急カンファでプレゼンデビューした,おそらく唯一のレジデントだと思います。

 初めての当直のときに,ALSの患者さんが発熱と咳嗽で受診しました。もちろん上級医にプレゼンをして判断を仰いだのですが,私のプレゼンが不十分だったためか,「問題ないから帰宅させて」と言われました。その患者さんが半日後に肺炎・呼吸不全で入院となりました。当時の私としては落ち度のない初期対応をしたつもりでしたが,基礎疾患を持つ患者への判断が不十分であったことを指摘されました。その後も60歳代男性の初発の呼気性喘鳴から急性心不全を見抜けず,診察中に低血圧性ショックになった事例(のちに未診断の糖尿病があり,胸痛を感じない広範囲の心筋梗塞が判明)や,穿孔するまで見抜けなかった5歳児の虫垂炎など,度々この救急カンファにはお世話になりました。

 米国での最初の当直では,リスクの高い分娩の立会いをしました。なんと13歳の妊婦への吸引分娩でした。後から集まったチームメンバーに,吸引を意味する“vacuum”を,本来の“a”ではなく日本語式に“u”にアクセントをおいて発音したら全く理解してもらえませんでした。英語が伝わらないと,完璧に役立たずのような扱いを受け,非常に落ち込みました。

 このように,出足で救急診療につまずいた私が救急医療を専門にするようになり,英語でもつまずいたけれど英語で救急室の蘇生リーダーができるようにまでなりました。人生って不思議なものです。

(2)ハワイ大小児科の救急部門の教授であるLoren G.Yamamoto先生は,ハワイの研修医時代の恩師であり,またハワイでの研修を終えて10年近くになりますが,いまだに私のメンターになっていただいています。米国内では小児救急のフェローシップは非常に人気が高く,外国人がマッチする可能性は低いと言われていましたが,Yamamoto先生に出会ったおかげで,困難を乗り越えることができました。ハワイでの小児科研修中に2つの臨床研究をやり遂げ,両方とも学会発表をし,論文にまとめることができましたが,いずれもYamamoto先生の指導がなければ絶対に完成させることができませんでした。

 また,日本の田舎に育ち,米国の田舎であるハワイのレジデントであった私が,全米でトップ10に挙げられている大都会の病院から小児救急フェローシップの面接に呼ばれたとき,緊張する私に彼はこのように言ってくれました。

 “Nobu, just be yourself. You can not be more than yourself, but you also can not be less than yourself.”

 この言葉は,今も私をことあるごとに勇気付けてくれています。

(3)Native Hawaiianの歌手,Israel Kamakawiwo’ ole(通称IZ)が歌う“Somewhere over the rainbow”が思い出に残る曲です。もともとはJudy Garlandがミュージカル「オズの魔法使い」のなかで歌い,のちにアカデミー歌曲賞を受賞している曲のカバーです。テレビドラマ『ER』のメインキャストであったマーク・グリーン医師が,脳腫瘍のためハワイでその生涯を閉じるときのBGMとしてかかっていた曲でもあります。ハワイは“rainbow state”と言われるほど毎日のように虹を多く見ますが,彼の透き通った声とハワイの青い空,そしてこの歌の「虹を越えて彼方に」というフレーズは,当時苦しいなかにあった私に,勇気と癒やしを与えてくれました。そして将来は虹のように日本と米国を結ぶ架け橋になりたいと思うようになりました。

(4)「自分で自分の限界を決めないこと」。これは天理よろづ相談所病院での初期研修時代の恩師でもある今中孝信先生(元同病院副院長)がおっしゃっていた言葉でもあります。自分が将来出会う患者さんたちのため,私たちは日々成長する必要があります。自分で限界を決めてしまうと,成長が止まってしまいます。現在の私自身への自戒の念も込め,研修医・医学生へ伝えたいと思います。日々前進ですね。

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