医学界新聞

連載

2013.09.16

The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,"ジェネシャリスト"という新概念を提唱する。

【第3回】
なぜ,二元論が問題なのか――その1 臨床医学と基礎医学

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 医療の世界は,二元論に満ちている。

 例えば,臨床医学と基礎医学。一見,真逆の概念であるように感じられる両者であるが,両者は実は,つながっている。

 医学は,目的を持った学問である。ヒトの健康と幸福。その目的に合致する医学知識だけが善とされ,是とされる。たとえ科学的に「真」とされる事実であっても,それがヒトの健康と幸福に寄与しない場合,それは悪とされ,否定される。

 科学は一般的に真偽を問う学問である。もちろん,医学においても真と偽は重要である。データの捏造なんてもっての外だ。が,たとえそのデータが真であったとしても,善を伴わなければ,医学という学問はそれを認めない。

 基礎医学の領域においても,それが「医学」である以上,目的は同じである。最終的なゴールは臨床医学への橋渡し,そして実地診療への橋渡しだ。

 基礎医学と臨床医学はともに「患者の健康と幸福」という共通のゴールをめざす,プロセスの各所に過ぎない。したがって,両者は対立概念ではない。また,基礎医学を欠いては臨床医学は存在し得ず,臨床医学を欠いては基礎医学が存在する理由がない。両者は同じゴールをめざすだけでなく,それぞれに相補的であり,依存的なのである。

 基礎医学から臨床医学へのプロセスは連続的であり,両者は完全に分断されているわけではない。

 が,両者の距離はとても遠い。

 医学が今ほど巨大な情報量を持たず,もっと素朴だった時代には,基礎医学の先には臨床医学が肉眼で見据えることができたものである。

 エドワード・ジェンナーは牛痘感染が天然痘感染を予防するという仮説に基づき,いきなりヒトでそれを検証した(人体実験)。18世紀は医学における経験主義(empiricism)から実証主義(positivism)への移行期である。「実験医学の父」と呼ばれるジョン・ハンターの影響を受けたジェンナーは,その素朴な実証主義を用いて基礎医学から臨床医学への文字通りの「命がけの飛躍」を行ったのである1)

 現在では,このような素朴な実証主義は医療倫理と完全にバッティングしてしまう。そこで,基礎医学の成果が臨床医学にバトンタッチする前に,たくさんのハードルが設けられた。両者の距離は伸びた。水平線の彼方に行ってしまった。基礎医学と臨床医学との長い長い距離は,両者を不可視(invisible)にしてしまった。

 遠い遠い基礎医学と臨床医学の距離。この距離を橋渡しするために,最近ではトランスレーショナル・リサーチなるものが存在する。

 とはいえ,距離の問題は深刻だ。トランスレーショナル・リサーチとか,クリニシャン・サイエンティストという呼称は結構な話だけれど,現実はそう簡単ではない。基礎医学の世界も,臨床医学の世界も,その世界の奥深さは相当なものだからである。両者の深みを同時に体験するのは,極めて困難な営為だからである。

 したがって,現実にはクリニシャン・サイエンティストと呼ばれる医師のほとんどは,実は基礎研究者プラス“ついでに”臨床をやっているというパターンである。

 “ついでに”半ちくに臨床医学に手を出すのは危険である。どのような世界でも半ちくに手を出すときと同じように。その広大な世界を表層的に,「こんなものか」と割りきってしまう。

 そのため,日本の多くの基礎医学者は,臨床医学を軽蔑する。日本の医学部の大学教授は大多数が基礎医学者(や,クリニシャン・サイエンティストと称する基礎医学者)から構成されているので,日本の医学部も,全体において臨床医学を軽蔑する。いやいや,軽蔑なんてしていませんよ,と称する人は差別のなんたるかを理解していない。差別を自覚し「私は差別者ですよ」と公表する差別者はごく少数なのである。

 その軽蔑の眼差しに自覚的である市井の臨床屋もまた,基礎医学者を軽蔑し,「ネズミのお医者さん」などと揶揄する。博士号を獲得するためにちょっと基礎医学をかじっただけで,あるいはかじったことすらなく。これは鏡のように前段落と同じ問題の構造だ。ここでも二元論なのである。

 二元論を克服しなければならない。が,基礎医学と臨床医学の距離は遠い。簡単に両者間を行き来できないくらい,遠い。これは一見矛盾である。

 それを矛盾としないようにするためには,ぼくらの相当な覚悟と努力を必要とする。距離と連続性,という一見矛盾する,しかしよく考えれば全然矛盾していない概念を十全に理解する必要がある。それは,「無理解への配慮」と言い換えても,よい。

 日本では臨床屋が基礎実験を行い,基礎医学者に教えを請うて博士号を取得する,という習慣がある。これが臨床軽視の遠因になったのは事実である。しかし,そのような習慣に乏しいアメリカでは,臨床屋が基礎医学にまったく無頓着にして無理解なこともある(分業社会ですから)。「足の裏の米粒」と揶揄される日本の習慣は,その世界観の構造が睥睨されているときに限り,とても有効なシステムである可能性がある。

 基礎医学と臨床医学の距離は遠い。しかし,分断されていない,連続した概念である。日本の伝統的な「博士取っとく」習慣は,両者を分断しない効能があるが,本当は遠い両者の距離を「近い」と錯覚させる副作用がある。アメリカ的分業主義は両者の連続性そのものに無自覚にさせる。

 おそらくは,日本のほうが二元論克服のチャンスは大きい。

 「距離と連続性」問題の克服に必要なのは,「無理解への配慮」である。基礎医学者の多くは,臨床医学の世界の広さと深さを見たことがない。「その世界の広さを知らない」という理解が重要である。臨床屋の多くは……こっちもおんなじ。無理解の自覚がもたらすべきは,「無関心」ではない。配慮である。相手への敬意,他者への配慮。これが「距離と連続性」という難問を解く,ほとんど唯一の方法である。相手の世界をチラ見して,そして「わからない」と宣言するのである。プライドの高い(ことが多い)医者にとって,「わからない」という宣言は難事である。スティーブ・ジョブズがなぜ「Stay foolish」と言ったのかが,ここでわかる。

 これは上っ面のプライドの下に横たわる「真の矜持」の問題である。そして,勇気の問題でもある。

つづく

参考文献
1)茨城保.まんが医学の歴史.医学書院;2008.

開く

医学書院IDの登録設定により、
更新通知をメールで受け取れます。

医学界新聞公式SNS

  • Facebook