医学界新聞

連載

2013.10.28

The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,“ジェネシャリスト”という新概念を提唱する。

【第4回】
なぜ,二元論が問題なのか――その2 アメリカ医療と日本医療

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 前回,ついうっかり「アメリカでは」と書いてしまった。本当は,そういう書き方にも十分注意が必要だ。それもまた,二元論の萌芽になりかねないからだ。

 アメリカ医療と日本の医療は,対立軸で語られがちである。というか,日本では「外国」というと,アメリカのことしか顧慮しないことが多い。

 領土問題でも貿易問題でも戦争が勃発しそうになっても,われわれは「アメリカは日本をどう考え,どうしたいのか」とアメリカの心中を慮る。「ニュージーランドはどう考えているか」とか「ナイジェリアはどう考えているか」なんて決して顧慮しないし,イギリス,フランス,ドイツ,カナダなどの先進国,大国の意向も脳裏をよぎることはない。中国,韓国といった隣国ですら,これらの国がどのように動いた,という事実の確認はするものの,「彼らはどのように考えているのか」といった「配慮」をする者はほとんどいない(「あいつらはこういうふうに考えてる」と決めつける人は,いても)。

 事ほどさように,日本人が外国を考えるとき,ほとんどアメリカの意向についてしか考えない。これは第二次世界大戦でコテンパンにやられた,その「コテンパン」の度合いがあまりにもキツすぎた,巨大なトラウマのせいであろう。そのトラウマのせいで,多くの日本人はアメリカに対して極端に卑屈になる。あるいはその反発から,極端に反米的になる。いずれにしても,ほとんどの日本人はアメリカ人に,アメリカという国に,心を奪われる。こんな感情,ニュージーランド人やナイジェリア人に対しては,決して湧き上がらない。

 アメリカとアメリカ人は,日本と日本人にとって「巨大な他者」である。政治的には同盟国だが,彼らを「同類」と考える日本人はほとんどいない。したがって,好むにしても嫌うにしても,日本人がアメリカ人を語るとき,あるいはアメリカという国を語るときは,「日本はこうである。翻ってアメリカではこうである」という対比的な言い方でしか,アメリカという国を語ることができない。

 巨大な他者,アメリカとアメリカ人を日本人は凝視し続けてきた。好むにせよ,嫌うにせよ,この国だけからは目を離すことができないからだ。ヤクザ映画を観た後は肩を怒らせて歩くようになるのと同様,いつの日からか日本人の振る舞いも凝視の相手,アメリカ人に少しずつ似てくるようになった。それはバブル,ポストバブルの頃からだろう。和を重んじ,自己主張をせず,「あいまいさ」を尊んでいた日本人はいつしか個人主義的になり,共同体的「和」を軽蔑するようになり,「ノーと言える」ようになり,「カネのことだけ考える」ようになる。広がる格差社会,医療紛争,医療訴訟,免罪符的なインフォームド・コンセント。さらに悪化する医者・患者関係。

 女性が活躍しにくい社会において,男性を凌駕するために極めてマッチョに男らしく振る舞い,成り上がる女性が,ときにいる。そのとき,不思議なことにそういう女性は男性の悪いところばかりを真似する。男性の悪いところしか見えていないからだ(だから腹が立つし,乗り越えたくなるのだ)。そういう女性は(まるでダメな男性のように)居丈高で暴力的で自己中心的で上昇志向が強すぎる。同じように,アメリカ人ばかりを凝視する日本人は,最も駄目なタイプのアメリカ人を模倣するのである。

 アメリカに行くとき,「日本人は自己主張をしない。もっと積極的に発言しないとダメだ」と教えられる。確かに,アメリカ人はよくしゃべる。しかし,よくよく観察していると,その発言のほとんどはどうでもよいものであることが多い。さらに観察を重ねると,「本当に優れたアメリカ人」はあまり口を開かない。静かに相手の言葉に耳を傾けていることが多い。ま,そういうことだ。

 個々の人間は全て異なる。だから,日本人とアメリカ人が異なるのも,当たり前だ。同時に,全ての人間は「人間」として一つにくくりこむことができる。いかなる根拠で異なる個々を一つの種にくくりこむことができるのか。その根拠は案外,語るに難しい。二足歩行をするからか。二足歩行をする動物もいれば,それができない人間もいるから,これは必要十分な定義とは言えない。コトバをしゃべるからか。ある種のコトバを解する動物もいるし,コトバを介さない人間もいるから……以下同文。

 定義の根拠付けは困難なものの,われわれは異なる個体をひとくくりにして「人間」とまとめることが可能である。それを可能にするのは構造主義的恣意性と,ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言語ゲーム的先験的了解性である。何が言いたいのかというと,日本人とアメリカ人を異なると考えるのか,同じようなものと考えるのかは,「単なる見方の問題」に過ぎない,ということだ。日本人の日本人性にこだわりすぎ,アメリカ人のアメリカ人性との対比にあまりにこだわりすぎると,異なるルールの言語ゲームの存在を否定してしまう。

 例えば,人口当たりのCTやMRIが日本で圧倒的に多いことはよく知られている。一方,OECDの『Health at a Glance 2011』1)によると,MRIやCTの検査数が突出して多い国はアメリカである(それよりひどいのは,OECDでは唯一ギリシャ!)。ちなみに,OECDは日本のデータは入手できなかったらしく日本の検査数が世界のどのへんかは不明である。が,検査数が多いことは間違いないだろう。

 ここで大事なのは,アメリカと日本のどちらがCT,MRIの撮りすぎか,ではない。どちらも突出している,というところが大事なのだ。案外,両国はとても似ているのである。

 この二元論の克服には,眼差しの相対化がもっとも効果的だ。それはどういうものか。

 趙の時代,天下一の弓の名人たらんとした紀昌は弓も矢も使わない「不射之射」を学び,最後には弓矢が何であるか,すら忘れてしまう2)。「敵を忘れ,私を忘れ,戦うことの意味を忘れたときにこそ人は最強となる」3)。禅の十牛図で牛のことを忘れてしまうのと同じだ。

 学歴主義はケシカラン,と強く主張する者は,やはり学歴という存在に絡めとられている。学歴の話すら出ない(興味ないから)のが,真に学歴社会から(「他者の目」から)自由になった人である。男なんてケシカラン,アメリカなんてケシカラン(あるいは素晴らしい),も同様。アメリカ医療と日本医療の徹底的な相対化は,まずアメリカを徹底的に相対化し,等しい目でイギリスとか中国とかキューバとかハイチの医療に眼差しを持つことにある。そのとき,この二元論は雲散霧消し,一歩またジェネシャリストに近づくのである。

つづく

参考文献
1)OECD.Health at a Glance 2011.
2)中島敦.名人伝.山月記・李陵.岩波書店;1994.pp101-10.
3)内田樹.修行論.光文社;2013.p62.

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