応用倫理学入門 科学技術に伴う諸問題を考える
[第2回] 道徳的地位――どのような存在に,どの程度の倫理的配慮をすべきか
連載 澤井努
2024.09.10 医学界新聞(通常号):第3565号より
医療の現場において,倫理は単なる理論ではなく,日々のさまざまな実践に直結する重要な指針として機能することが期待されています。また,医療従事者,医療者を志す学生にとって,倫理的な判断力を養うことは,専門的なスキルを磨くのと同様に不可欠だとされています。
今回注目する「道徳的地位(moral status)」1, 2)は,医療における意思決定や患者とのかかわり方を考える上での基本概念の一つです。医療の文脈においては,通常の患者に加え,終末期や認知症の患者,胚(受精卵)や胎児,脳死者など,さまざまな状況下にある人々の道徳的地位が問題となります。言い換えれば,多様な存在にどの程度配慮すべきかが問題となるのです。この概念は,人間だけではなく,動物,自然環境,さらには人工知能といった幅広い対象にも適用されます。
本稿では,道徳的地位の概念を概略した上で,具体的なシナリオも交えながら実践的な理解を深めていきたいと思います。
道徳的地位の基準
道徳的地位の有無を判断するための基準は多岐にわたりますが,特に以下の三点が重要です。
1.自律性(自己の行動を選択し,決定する能力)
この高度な認知能力を持つ存在は,「完全な道徳的地位(full moral status)」を持つとされます。自律性を持つ代表的な存在は私たちのような人間です。このほか,こうした能力を現在持たない存在であっても,今後発展させる可能性がある存在,例えば胚や胎児も,完全な道徳的地位を持つとされる場合があります。
2.有感性(苦痛や快楽を感じる能力)
この基本的な能力を持つ存在は「ある程度の道徳的地位(some moral status)」を持つとされます。有感性を持つ存在は,苦痛を回避したいという利害関心を持っており,例えば,犬を無意味に蹴ることが倫理的に悪いとされるのは,その行為が犬自身に不当な苦痛を与えるからです。
苦痛を回避したいという利害関心を持つ存在の間では,その利害関心を平等に重視することが求められます。逆に言えば,これは異なる存在に異なる種類の利害関心があることを意味します。例えば,人間には動物よりも広範で複雑な利害関心があります。日常生活の倫理的配慮において,動物よりも人間が優先されるのはそのためです。
一方で,脳死状態にある人や自律性を欠く新生児の道徳的地位が,有感性やある程度高度な認知能力を持つ動物個体の道徳的地位よりも高いと主張することは,論理的一貫性に欠けると判断されることもあります。「人間であること」が道徳的地位にとって重要であるとする立場(ヒトの種に属すること自体が完全な道徳的地位を付与する基準になるというもの)もありますが,これに対しては根強い反対意見があります。こうした議論を補完するのが次の基準です。
3.関係性(他者や周囲との関係や絆)
これは,家族,友人,ペットなどとの親密な関係性,またはあるコミュニティの一員であるという事実が倫理的判断に影響を与えるというものです。この視点を導入することで,多くの人の直観にかなった「まとも」な倫理的判断を導くことが可能になります。
ここで説明した三つの基準は互いに排他的ではなく,社会において複合的に適用されることが一般的です。医療現場では,これらの基準を総合的に考慮しながら,個々の状況に応じて倫理的判断を下すことが求められます。
道徳的地位の応用例
次に,医療現場で起こり得る仮想的な事例を通じて,道徳的地位の概念が具体的にどのように適用されるのかを見ていきます。
胎児の道徳的地位と中絶
妊娠初期のAさんは,胎児に重大な先天性異常があることが判明しました。医師はその情報に基づいて,今後の選択肢を慎重に説明していますが,Aさんは倫理的な理由から中絶に対して躊躇しています。
この事例においては,胎児の道徳的地位をどのように評価するかが問われます。胎児が人へと成長する潜在性を持っていることから,その生命を...
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