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医学界新聞

応用倫理学入門 科学技術に伴う諸問題を考える

連載 澤井努

2024.08.13 医学界新聞(通常号):第3564号より

 大学で倫理学の授業をしていると,「倫理に答えはない」「倫理は人それぞれ」という言葉を,学生が口にすることがあります。これらの表現は,倫理に関して絶対的な見方は存在しないと主張する,「倫理的相対主義」という倫理学的立場を示唆しています。しかし,私の授業に出ている学生と同じく,多くの人がその真意を十分に理解せず,「倫理に答えはない」と簡単に言ってしまっているのではないでしょうか。

 1900年代以降,倫理学の一部の分野では,「倫理に答えはあるのか」「倫理は普遍的なものか,それとも個人や文化によって異なるのか」との問いが真剣に議論され,倫理的相対主義をめぐる理解も深まってきました。しかし,社会では「倫理に答えはない」「倫理は人それぞれ」という見方が依然として広まっていて,その結果,倫理をめぐる議論が「私はこう思う」と個々の意見を表明するだけの表面的なものに陥りがちです。こうした状況下で,倫理的相対主義が抱えるジレンマに留意しながら,より良い倫理の構築につながる視点を提供することが本連載の目的の一つです。

 日々の臨床現場で倫理的判断を求められる医療従事者の皆さん,また将来その場に立つ医学生や看護学生の皆さんにとって,倫理の問題は日々の実践や将来の職業生活に直結する重要なテーマでしょう。以下では,従来の科学・医学・工学が提起する倫理的問題から,最先端の科学・医学・工学が投げかける新たな倫理的問題まで,幅広いトピックを扱う本連載の出発点として,まず倫理の「絶対的な見方」と「相対的な見方」の違いを簡潔に説明し,本連載のめざすところを明確にしていきます。

 倫理的絶対主義は,倫理が普遍的で不変の原則に基づくという見方です。医療の世界では,例えば「どんな状況下でも,患者の個人情報や医療情報を第三者に漏らしてはならない(医師の守秘義務)」「どんな理由があっても,人体の一部を金銭で取引することは許されない(臓器売買の禁止)」などがこの考え方を代表しています。これらの主張は,(ある特定の人たちにとって)文化や個人の価値観を超えて適用される普遍的な基準として扱われています。

 一方,倫理的相対主義は,倫理が文化や個人の価値観に依存し,ただ一つの絶対的な正解は存在しないという立場です。例えば,終末期医療の扱い方は文化や時代によって大きく異なります。欧米では患者の自己決定権を重視する傾向がありますが,家族や共同体の意思決定を優先する文化もあります。このような違いは,倫理的判断が文化的背景に強く影響されることを示しています。そして,こうした文化差を認識・尊重できる点で相対主義には利点があります。

 「倫理に答えはない」「倫理は人それぞれ」という表現は,確かに倫理的相対主義の一面をとらえていますが,多くの場合,その真意が正確に理解されていません。これらの言葉を安易に用いることで,倫理的判断の重要性を軽視したり,自身の責任を回避したりする危険性が生じます。

 実際には,倫理的相対主義は「何でもあり」を意味するものではありません。むしろ,異なる価値観や文化的背景を認識し,それらを考慮に入れた上でより良い倫理的判断を行うことを求めているのです。この点を理解せずに相対主義を無自覚に採用すると,建設的な議論が困難になり,結果として患者の利益を損なう可能性があります。

 それでは,倫理的相対主義の落とし穴を避けつつ,多様な価値観を尊重して建設的な議論を進めるにはどうすればよいのでしょうか。私が提案したいのは,「...

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