逆輸出された漢字医学用語
[第9回] 癌(がん)
連載 福武敏夫
2024.02.05 週刊医学界新聞(通常号):第3552号より
第6回の「麻酔」で紹介した華岡青洲の世界に先駆けての全身麻酔は乳癌に対してであった(1804年)。最初の患者は妻だったというのは誤解であるものの,その摘出術は患者,術者,術名,時期,場所が特定され,信拠すべき記録が残されている点が特筆される〔松木明知:日医史誌,2017;63(4):371-88〕。
さてそのがんは「癌」と書かれていたのか? 青洲とその弟子による記録はいろいろ伝えられているが,最初の記録者とその後の写本によって,「岩」「巌」「嵒」「癌」とさまざまな漢字が使われている。「癌」の用例は国内では1666年の『合類醫學入門』(八尾玄長)における「己に潰て深く陥り岩の如きを癌と為す」が最初のようであり(『日本国語大辞典』),「癌」はそれまでに国内で造られた国字と思われることが多かったようだ。中国・清の康熙帝の勅撰によって編纂された字書の集大成として有名な『康煕字典』(1716)にも採用されていないからである。しかし,漢字としては中国の南宋時代に用いられていた〔『仁斎直指方』(1264)〕とされる。ヤマイダレの中の「嵒」は岩山を指す字であり,癌がごつごつしていることを表している。中国のほうが古いと言っても,中国でも実は「乳岩」や「乳巌」と書くことがほとんどであり,日本において西洋医学のCancerの訳語として「癌」が決定的に使用されるようになり〔大槻玄沢ら翻訳の『瘍医新書』(1825)〕,その意味での「癌」の用法が100年ほど遅れて中国にも逆輸出されていった〔『新華外来詞詞典』によると『新字典』(1913)〕。
「癌」はいろいろな組織などの中で大きな障害になっており,比喩的表現にも用いられる。『日本国語大辞典』によると,その最初の例は久保田万太郎による『春泥』(1928)の「従来新派の癌とされてゐた諸種の情実だの因襲だのを根本から芟除する」である。
最後に,「癌」と「がん」の使い分けに一言。この問題は「癌」が当用漢字になかったことから始まったようだが,現在に至るも悪性腫瘍関連学会の中でもいろいろな定義の違いがあり,混乱を極めているように見える。固形癌こそ「癌」の字義にかなうとしても,耳で聞いただけでは区別がつかないのはどうかと思う。
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