医学界新聞

逆輸出された漢字医学用語

連載 福武敏夫

2023.11.06 週刊医学界新聞(通常号):第3540号より

 2007年にボストンで開催されたAmerican Academy of Neurologyの年次大会に参加した時に,ボストン美術館を堪能した他に,神経学の三大聖地の一つMGH(Massachusetts General Hospital)を訪れた(他の聖地はパリのSalpêtrière病院とロンドンのQueen Square)。New England Journal of Medicineの症例カンファレンスの挿絵で有名な建物の最上階の講堂に上ると,そこが1846年に世界で最初の麻酔と言われるエーテル麻酔の公開実験が行われた場所である。同所にはその時の様子を示す絵が飾られており,思わず自分も参加しているかのごとき写真を撮った。しかし,世界で最初に成功した全身麻酔は1804年の華岡青洲による通仙散(麻沸散)を用いた乳癌手術で行われた。これを題材にした有吉佐和子の『華岡青洲の妻』(新潮社:1970)では医療にとっての大きな業績の陰に,母親と自ら進んで人体実験に身をささげた嫁との青洲の愛を争う深い確執が描かれていて大変興味深い。

3540_0401new.jpg
写真 時代を超えてエーテル麻酔の公開実験に参加する筆者

 では,一体「麻酔」がanesthesia(an+esthesia=無くす+感覚)の訳語になったのは何時で誰によるのか。中国三国時代の華佗による麻沸散を用いた開腹術は有名であるが,『魏志華佗伝』に「酔死の如く知る所無し」とあるものの(後述の松木による論文より),その当時に「麻酔」の語は見当たらない。かの碩学たる小川鼎三も「明治の初期にはすでにこの術語が用いられていた」(『医学用語の起り』,東京書籍:1983)としか突き止められなかった。しかし,同年の日本醫史學雑誌の松木明知による「『麻酔』の語史学的研究」(1983; 29(2): 219-20, (3): 304-15)によれば,1850年の杉田成卿による翻訳本『済生備考』に「麻酔」の語が見え,これが最も古い文献とされている。

 松木によれば,中国の『漢洋辞典』(1853)には「麻酔」の語はなく,『英華辞典』(1883)では「迷蒙忘痛」や「致睡」などが用いられていた。『新華外来詞詞典』では中国での初出は1919年の『診断学』下巻となっている。『日本国語大辞典』によれば,中国に初出した同年に,有島武郎の『或る女』という小説の中に「麻酔中に私の云ふうわ言でも聞いておいて」(うわは超複雑な漢字)という記載がある。

開く

医学書院IDの登録設定により、
更新通知をメールで受け取れます。

医学界新聞公式SNS

  • Facebook