医学界新聞

逆輸出された漢字医学用語

連載 福武敏夫

2024.03.04 週刊医学界新聞(通常号):第3556号より

 結核はいつから存在していたのだろうか。紀元前5000年頃の人骨や紀元前1000年頃のエジプトのミイラに骨結核の痕跡が認められていることから,当時から存在していたと考えられる。日本でも縄文時代の人骨には痕跡はみられないが,千葉県小見川の古墳から発掘された骨に結核の痕がみられたという〔酒井シヅ『病が語る日本史』(2002)〕。この例は壮年男性の腰椎・仙骨部分のカリエスで,股関節付近に及ぶ流注膿瘍痕も認められたという〔小片丘彦:新潟医会誌.1972;86(11):466-77〕。『源氏物語』や『枕草子』の時代にも結核があったことがうかがわれる記述があるが,病名は「胸の病」の中に含まれ,江戸時代には「肺勞」や「勞咳」と呼ばれていた。中国でも7世紀には「瘰癧るいれき」と呼ばれており,その後は症候により「虚勞」や「熱勞」などさまざまな言葉が用いられていた。

 では,「結核」という語はいつからどこで用いられるようになったのか。中国には古くから別の皮膚症状を指す言葉として「結核」が使われていたようだ(福田眞人:医事新報.2020;5024:54-5)。しかし,感染症疾患としては1566年の『全九集』にある「結核は熱甚しき時は鬱結堅硬にして集中のさねの如し」が最初の記述である(『日本国語大辞典』)。『全九集』の著者は月湖という日本僧である。月湖は明に渡り,いくつかの書物を成した。それらが後に日本に伝わってきたものの,刊行の記録は中国に残っておらず謎である〔真柳誠『龍谷大学大宮図書館和漢古典籍貴重書解題(自然科学之部)』(1997)〕。『全九集』はその後,織田信長など戦国の三傑に頼られた名医である曲直瀬道三によって増訂され,国内に広まっていった。

 以上のような経過はあるが,感染症としての現在の結核を意識して「結核」が用いられたのは,天然痘ワクチンの普及に尽力した近代医学の祖と言われる緒方洪庵が1857年に翻訳してからという(福田眞人)。運命のいたずらか,洪庵は西洋医学所頭取に就任してわずか1年で喀血して死亡した(享年54歳)。結核に冒されていたのだろう。

 現在,結核の検査に用いられるツベルクリンは1890年にコッホにより創製された。当初は治療が企図され,翌年には日本でも試みられた論文がみられるが,成功しなかった。なお,ツベルクリンは中国では結核菌素と呼ばれている。


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