他者理解を促すためのブックガイド
[第9回] クロノス的時間とカイロス的時間
連載 小川公代
2023.06.26 週刊医学界新聞(看護号):第3523号より
イギリスの作家ヴァージニア・ウルフは,行動面では性規範に縛られてしまう女性たちが実は豊かでみずみずしい内的世界を備えているさまを小説に描いた。そして,その語りを可能にしたのは「意識の流れ」と呼ばれる,当時モダニズム作家らが用いていた手法である。例えば,ウルフの代表作『灯台へ』(1927)では,ディナーが終わりに近づいている場面で,ラムジー夫人の内面世界に分け入っている。「お開きの時間だわ。みんなお皿に残ったものをつつきまわしているだけ。ひとまず,主人(筆者注:ラムジー氏)の話にまわりがひとしきり笑うまで待つとしましょう」という意識の声を彼女に語らせるのである1)。
ジョルジョ・アガンベンは,近代人が前提とする時系列の「経験を可能なかぎり人間の外に,つまりは道具と数のなかに移し換えていく」時間を「クロノス的」な時間と呼んだ2)が,ラムジー夫人はそれとは反対の,経験と質的な変容を伴う「カイロス的時間」を生きている。「カイロスは,さまざまな時間をみずからのうちに集中させる」,そういった深い時間である2)。おそらく性規範に苦しんだウルフにとって,あらゆるものが数値化されてしまう時間感覚の対極におかれる「カイロス的時間」,あるいは抑圧される女性たちの主観的な時間を表現することは救いだったのだろう。
ウルフの親しい友人でもあった作家E・M・フォースターも『ハワーズ・エンド』(1910)において,主観的な「カイロス的時間」を生きるマーガレット・シュレーゲルおよび彼女の妹ヘレンと,あらゆることを数値化し「クロノス的時間」を生きるヘンリー・ウィルコックスとを対比させている。ヘンリーは何よりも財産や自分の利益を優先させるが,マーガレットたちは金銭的価値以上に,人と人との関係性や他者への配慮といったものに思いをめぐらせる。
ヘンリーとのちに結婚するマーガレットだが,彼の利己的な生き方が理解できない。ヘンリーは,シュレーゲル姉妹の友人であるレナード・バストの勤め先である火災保険会社が年内に破産するという誤った情報に基づき,早く辞めるよう助言するのだが,その結果,レナードは失業してしまう。しかし,ヘンリーはその責任を取ろうとしない。というのも,彼はパーティで,かつて自分の情婦だったジャッキーと遭遇し,彼女がレナードの現在の妻であることを知るからだ。彼はマーガレットが悪意を持ってわざとジャッキーを連れてきたのだと誤解し,頼まれていた失業中のレナードへの援助を拒む。
マーガレットは損得でしか物事を考えられないヘンリーに幻滅し,実際には語られないジャッキーやレナードの「カイロス的時間」を代弁し,彼らを擁護する。「一人の女を玩具にして,それから捨ててその女のために他の男たちにその将来を棒に振らせる。そして碌でもない忠告をして,その責任は自分にないという。あなたはそういう男じゃありませんか」,そう言い放っている3)。
マーガレットのモットーは「謙虚でいて人に親切にすることを心がけてどんなことにもめげないで,人を憐れむよりも愛し,困っている人たちを忘れないで」いることである3)。こうして,困っているレナード夫妻の人生にも想像力をめぐらせ,人と人の結びつきを肯定するヒロインのケア精神が立ち現れるとき,ウルフがもっとも尊い資質として描いた反近代的な「カイロス的時間」がフォースターの文学の特徴でもあったことが見いだされる。『ハワーズ・エンド』は,アンソニー・ホプキンス主演で映画化されているので,見てみてはどうだろうか。
参考文献
1)ヴァージニア・ウルフ(鴻巣友季子訳).灯台へ.世界文学全集Ⅱ-01「灯台へ/サルガッソーの広い海」.河出書房新社;2009.p140.
2)ジョルジョ・アガンベン(上村忠男訳).幼児期と歴史――経験の破壊と歴史の起源.岩波書店;2007.p27,179.
3)E・M・フォースター(吉田健一訳).ハワーズ・エンド.河出書房新社;2008.p434,100.
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