医学界新聞

オープンサイエンス時代の論文出版

連載 大隅典子

2023.05.08 週刊医学界新聞(通常号):第3516号より

 ディジタル化とインターネットにより,われわれはこれまでにない量のデータへのアクセスが可能な時代を迎えており,市民にも開かれたオープンサイエンスの推進へ向かうための議論がなされている。商業ベースでない形でのデータシェアリングや学術情報流通が理想ではあるが,医学界における実現のためにはいくつかの問題が立ちはだかる。20年以上前からは電子ジャーナルの購読料高騰が,さらに近年ではArticle Publishing Charge(APC)の負担増加も合わせて大きな問題となりつつある。“知のインフラ”をどのように整備すべきか。

 筆者は現在,東北大学附属図書館長という立場でもあるが,過去30年余りにわたりジャーナルが変遷していく流れの中で揉まれてきた体験をもとに,本連載では現場の研究者の視点からこの問題を取り上げたい。

 図書館は“知のインフラ”の1つの形態である。その歴史はメソポタミア時代にくさび形文字が刻まれた粘土板を集めたアッシュールバニパルの図書館までさかのぼれるが,紀元前3世紀のアレクサンドリアの図書館には紙媒体の資料が収蔵され,目録まで作られていたとされる。15世紀のグーテンベルクの活版印刷の発明を経て,17世紀に学術雑誌(いわゆるジャーナル)の発行が始まった。当時,英国王立協会の事務局長であったヘンリー・オルデンバーグ氏によって,『王立協会紀要(Philosophical Transactions of the Royal Society)』という雑誌が創刊され,印刷したジャーナルを購読者のもとに届けるシステムが作られた。それまでは,例えば顕微鏡を開発したオランダのアントニ・ファン・レーウェンフック氏が唾液中に微生物を見いだしたことを王立協会宛に書き送っていたように,「手紙(letter)」の体裁だった。ちなみにこの呼称は,現在でもNature誌などに残っており,20世紀の終わり頃まではScience誌の論文も,著者名が最後に付く様式であった。とはいえ,編集長と数人の査読者による掲載決定というシステムはこの頃より整えられてきた。

 その後,徐々に科学者・研究者が職業として確立され,数多く出版される論文をより早く読みこなす必要性から,「要旨」が本文の前に移動したり,(全てではないが)「材料・方法」が後ろに移されたり,タイトルが究極のエッセンスとなった(古典的な論文は「Aについての研究」のようなタイトルだった)。また20世紀半ば以降にはカラー印刷が開始された。だが,この約300年間の変遷は,1990年代以降の30年間に比べれば,かなりゆっくりとしたものであった。変革のきっかけはディジタル化とインターネットの普及である。

 かつて,英語の論文原稿はタイプライターで書かれ,受理後の編集作業によって活字に変換された。したがって間違いも多く,校正も慎重に行う必要があった。図の作成も,グラフを手描きしたり,写真を印刷してケント紙に貼り付けインスタントレタリングで説明の略称を加えたりと,手間暇かかるものだった(しかも査読者用に3部,4部と作成しなければならなかった)。また,紙媒体の雑誌ではページ数の制限が厳しかった。この状況を画期的に変革したのがウェブ化である。雑誌のスペース問題はほぼ解決され,医学生命科学研究のさらなる進展によって,よりインパクトのある研究は膨大なデータに支えられるようになり,論文はどんどん長大なものとなった。

 例を挙げれば,2007年のノーベル生理学・医学賞は「ノックアウトマウス作製技術」に関して授与されたが,その基盤技術の1つとしての胚性幹細胞(ES細胞)の確立に関する論文は,創刊間もないCell誌に1974年に掲載された1)。ちなみに皆さんご存じ“ブランドジャーナル”の1つであるCell誌は当初,米マサチューセッツ工科大学(MIT)の出版部から発行されていた。その後Cell Pressという出版社に移り,現在ではElsevier社の傘下に入っている。

 1974年のES細胞論文を改めて眺めると,1つの図としてまとめられているのはたった2つの写真。全部でFig.10まであるが,現代の医学生命科学分野のトップジャーナルの基準で言えば,図2つ分くらいのボリュームしかない。リプログラミングに関してノーベル生理学・医学賞を授与された山中伸弥教授の2006年のCell論文2)と比較してみると,当時がいかに牧歌的な時代であったかは一目瞭然である。

 伝統あるジャーナルが紙媒体に加えてウェブ上でも論文を読めるようにした横で,「オンラインのみ」の電子ジャーナルにチャレンジしたのが英国を拠点とするBioMed Centralという営利目的のオープンアクセス(OA)出版社である。2000年に立ち上げられ,現在はSpringer Nature社の傘下に入っている。

 さらに「知のインフラとしては,誰にでも読めるようなオープンなものにすべきではないか」と考えた人たちがいた。多くの研究費が国などからの公的資金に基づくのであるから,税金を支払う市民も研究成果へのアクセスの自由が保証されるのは,現代の基本的人権であると彼らは主張した。そこでPublic Library of Scienceという非営利組織が2001年に立ち上がり,PLoS Biologyという完全オンラインジャーナルが2003年に創刊された(現在の表記はPLOS)。このシステムは画期的であった。論文を印刷して送付することを一切止めてオンライン上に全て公開するということに加え,公開にかかる費用は全て著者が支払うAPC(平たく言えばOA出版のための掲載料)を元にしたのだ。

 PLOSはさらにいくつかのジャーナルを創設し,2006年にはPLOS ONEというデータのボリュームが少ない論文を投稿できる総合誌を発行し,これが大当たりした。すると,この様子を横目で眺めていた伝統あるジャーナルを発行する出版社も同じビジネスモデルを取り入れ,あちこちでfull OA誌が創刊されるようになった。日本で現在最も掲載論文数が多いのは,読者もよくご存じのScientific Reportsである。“サイレポ”は11年に創刊され,17年にPLOS ONEを抜いて世界最大規模のジャーナルとなった。

 PLOSによるOA論文出版の試みは,素人でも科学雑誌出版というビジネスモデルを展開できる流れにつながった。そのため面倒な査読プロセスを排除して,「イージーに論文を出版できますよ」との甘い声をささやく雑誌が現れた。現在,雨後の筍のごとくそのようなpredatory journalが生まれており,日本語で「ハゲタカ(捕食者)ジャーナル」と呼ばれる。読者も毎日のように迷惑メールが届いていないだろうか。

 他方,査読前の論文をプレプリントとしてサーバにアップロードして公開することも可能となった。医学生命科学分野では「bioRxiv」や「medRxiv」という名前を目にしたことがあるだろう。ちょうどコロナ禍で急いで研究成果の情報を知らせる必要性もあり,プレプリントの利用が一気に広がった。こちらは「査読前原稿」であることを明記しつつも,体裁が整っているために査読後の論文と勘違いされる方も多いので注意されたい。

 プレプリントとは独立して,知のインフラを支える大学図書館業界は,独自のOA戦略を取ることとした。その方策が「機関リポジトリ」と呼ばれるものである。『図書館情報学用語辞典 第5版』(丸善出版)による定義では,「大学や研究機関がその所属研究者の知的生産物を電子的形態で集積し保存・公開するために設置する電子アーカイブシステム」とされ,日本では2005年から開始された。現在,日本には何と900弱の機関リポジトリが存在する。

 「リポジトリ」という言葉で表されるように,機関リポジトリには論文出版された「著者最終稿」が,出版社による編集を経たバージョンとは異なるものとして「再収録」されている場合が多い。そのため,査読者との長い戦いの末に論文が受理され,校正を経て世の中に公開された時点で,研究者の興味はもはや次の対象に移っており,正直,機関リポジトリに登録することによってOA化する手続きは“しんどい”ものとして感じられる。なお,学位論文,研究報告書等の学術雑誌に掲載されない原稿や大学等の紀要も機関リポジトリに収録されている。

 この機関リポジトリのシステムは,商業的な費用がかかっていないという意味で「グリーンOA」と呼ばれることがある。一方,前述のAPCによって成り立つOA論文は「ゴールドOA」と称される。このゴールドOAの問題について,次回,詳述したい。


1)Cell. 1974[PMID:4416368]
2)Cell. 2006[PMID:16904174]

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東北大学大学院医学系研究科発生発達神経科学分野 教授/同大附属図書館長

1985年東京医歯大歯学部を卒業後,同大大学院歯学研究科博士課程修了。同大大学院生体機能制御歯科学系発生機構制御学講座助手を経て,96年国立精神神経センター(当時)神経研究所室長。98年より東北大大学院医学系研究科教授。18年からは同大副学長並びに附属図書館長を務める。専門は発生生物学,分子神経科学,神経発生学。博士(歯学)。『理系女性の人生設計ガイド』(講談社),『個性学入門』(朝倉書店)など編著書多数。

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