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  • 他者理解を促すためのブックガイド(7)パク・チャヌク『別れる決心』②――ヒッチコックと「分人」について(小川公代)

医学界新聞

他者理解を促すためのブックガイド

連載 小川公代

2023.04.24 週刊医学界新聞(看護号):第3515号より

 パク・チャヌクの『別れる決心』がアルフレッド・ヒッチコックの『めまい』を意識して作られているという記事を読んで,意外だと感じた1)。ところが,紳士的な刑事チャン・ヘジュンの振る舞いが探偵スコット(ジェームズ・スチュアート)に似ていたり,いずれの作品にも霧が立ち込めていたり,渦巻きのモチーフ――らせん階段やヒロインであるマデリン(キム・ノヴァク)の巻き髪――が共通していたりする。この二作品が初めは結びつかなかったのは,前者は「民族的他者」をテーマにしているが,後者は中流階級の白人の視点から物語を描いていると考えてしまったからだ。

 パク・チャヌクはヒロインの「ソレを中国人の設定にしたのはタン・ウェイさんに出てもらうため」と,俳優ウェイの起用が主な理由であるかのように説明しているが,「民族的他者」も同様に重要であると語っている。

そもそも,中国人の人が韓国で生きていくことは一種の弱みだと思います。言葉はあまり通じないし,韓国は外国人に親切な国とは言えませんから。ただし,ヘジュンは誰に対しても先入観を持たず,また差別をすることもなく接する人2)

 移民であるソレをヒロインに据える『別れる決心』を考える時,その萌芽ほうがは『お嬢さん』(2016年)に見いだされるだろう。これは日本統治時代の朝鮮を舞台として,莫大ばくだいな遺産を相続するヒロインをめぐり,詐欺師や使用人が奸計かんけいを企てる物語である。叔父に支配されるヒロイン秀子は社会構造に抑圧される「他者」と言えるが,民族的な抑圧関係でいうと使用人スッキはそのさらに底辺にいる女性である。

 パク・チャヌクの韓国人としての立場性こそがこのような他者の物語を書かせてきたのだとしたら,白人文化が支配するハリウッド映画の制作に携わったヒッチコックはその対極にあると思ってしまう。しかし,ヒッチコックがイギリス人移民としての他者性を抱えながらアメリカを表象していたことを考えればどうだろうか。例えば,『めまい』では,ミッション・サン・ホアン・バチスタなどの歴史的な建物や,マデリンの曽祖母であるカルロッタ・ヴァルデスという女性などから,抑圧されていたスペイン系メキシコ人の歴史が浮かび上がる3)

 また,『めまい』のヒロインは分人主義的な描かれ方がされている。「分人」とは,平野啓一郎によれば,「環境や対人関係のなかで形成され」るものである。すなわち,「本当の自分」が司令塔になってコントロールしているのではなく,「相手次第で,自然と様々な自分になる」ことであり,「複数の(分割可能な)分人」が存在することを意味する4)。キム・ノヴァクが演じ分ける対照的な二人のヒロインはまさに「分人」と言える。殺人計画のため「マデリン」を演じるジュディと,カンザス出身の田舎娘でスコットを愛するようになるジュディとでは異なる「分人」だが,どちらか一方が「本当」ということはない。

 パク・チャヌクもこのような分人モデルを『めまい』から着想したのかもしれない。骨を折るほどひどい暴力を加え,移民女性の尊厳を奪うような夫キ・ドスとの対人関係,ケアを差し向けてくれるヘジュンとの対人関係,その両方がソレの別個の「分人」を形成していく。加えて,シルバーケア提供者としてのソレは,おばあさんに「孫娘」と形容されるほど信頼される,別の「分人」を生きている。

 ヘジュンがソレをステレオタイプ化しないのは,彼に分人主義の態度があるからなのかもしれない。「ケアラー」か「悪女」のどちらが本当かという問いが失効するところに,「他者」への理解や優しさが見いだせるのではないだろうか。『別れる決心』は,社会的弱者に寄り添う人間とその優しさを受け入れることを知ったソレの「分人」をことほぐ物語とも言える。


1)Patrick Cremona. Park Chan-wook explains Hitchcock influence on new film Decision to Leave. 2022.
2)稲垣貴俊.『別れる決心』パク・チャヌクが語る,複雑な女性像にかける思い。目指すのはステレオタイプからの脱却.2023.
3)エラ・ショハット.関係としての民族性――アメリカ映画のマルチカルチュラル的な読解に向けて.岩本憲児,他(編).「新」映画理論集成1 歴史・人種・ジェンダー.フィルムアート社;1998.
4)平野啓一郎.私とは何か――「個人」から「分人」へ.講談社;2012.

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