医学界新聞

他者理解を促すためのブックガイド

連載 小川公代

2023.05.29 週刊医学界新聞(看護号):第3519号より

 英作家のカズオ・イシグロがインタビューで「地域を超える『横の旅行』ではなく,同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る『縦の旅行』が私たちには必要なのではないか」と語っていた1)。確かに,世界を飛び回っているエリートたちは,「横」のつながりがある人たちであり,同じ価値観を共有していることもあるのかもしれないが,物理的距離が近い人が必ずしも理解し合えるわけではないというのは真理をついている。

 映画『サン・ジャックへの道』は,普通の生活を送っていれば知り合うことさえない9人が,数か月生活を共にすることによって「縦」の結びつきを深めていく物語であるが,そのプロセスで重要な役割を果たしているのが「S親和者」である。これは精神科医の中井久夫が用いた言葉で,斎藤環によれば,「大破局の兆候を感知できる」ような敏感な人たちを指す。S親和者とは,「過去のデータベースに依存」し,予見性に基づいてプランを立てる真面目で秩序を重んじるタイプ(現代社会における多数派)とは対照的に,「つねに現在に先立つ者」である。彼らは統合失調症的な気質の人たちであり,不穏な時代に必要な「問題設定者」でもある。そして重要なのは,彼らが「個人的利害を超越して社会を担う気概を示」していることであろう2)

 『サン・ジャックへの道』では,S親和者は主人公の三兄姉――ピエール,クララ,クロード――ではない。彼らは母親の遺産を相続するために,不承不承その条件である聖地サンティアゴまでの1500 kmの道のりを歩くのだが,社長であるピエールと高校教員のクララは人を見下すところがあり,他者の気持ちに鈍感だ。彼らはS親和者とは正反対のタイプで,几帳面さや勤勉さだけを取りえとし,人と競合して,マウントを取ることに躍起になっている。クロードは勤勉ではないが,アルコール依存症で無気力であり,S親和者であるとは言い難い。

 この三兄姉は,ガイドのギイ,物静かな女性マチルド,女子高校生のエルザとカミーユ,そしてアラブ系少年ラムジィと彼の従兄弟サイードと共にスペインまでの巡礼の旅をしながら,人種,階級,年齢などによって生じる偏見や差別意識を克服していく。この集団では,一見足を引っ張っているように見える失読症の少年ラムジィこそがS親和者と呼ぶにふさわしい性質を備えている。彼は文字は読めないが,ピエールとクララが兄姉喧嘩をやめないのは,母の死に苦しんでいるからだと敏感に察知している。ラムジィは,自他の境界線上にいる「境界人」である。

 中井久夫は,森鷗外を「自己抑制」の倫理を備えた軍医/文人,つまり「境界人」であるとみなしている。鷗外が「ヒュブリス」(=おごり)に抗い続けた治療者であったことを示す証左として,中井は彼の詩「沙羅の木」を挙げている。この詩は「鷗外の一生を集約するもの」として言及されているが,中井は,小さな「白き花」が「はたと落ち」ることにさえ気づく鷗外の敏感さに共感したのだろう3)

 中井自身も「民間治療はたえずヒュブリスへの誘惑あるいは誇大万能者への傾斜に曝されている」と言っている4)。彼が治療の一環として患者の「足を洗う」ことを推奨していたのも,治療者の傲慢さを克服するための「謙抑を端的に示す記号論的行為」でもあるからだろう4)。この映画では,ピエールの金持ちとしての,あるいはクララの教育者としてのヒュブリスが描かれるが,クララがラムジィに字の読み方を教える時,彼女の謙抑が示される。斎藤が注目する中井の「心のうぶ毛」という言葉は,ラムジィの他者の苦しみを感受する力を表現するのにふさわしい。ヒュブリスを克服することとは,まさに小さいものに注視する能力を育むことである。


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1)倉沢美左.カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ――事実より「何を感じるか」が大事だとどうなるか.2021.
2)斎藤環.100分 de 名著 中井久夫スペシャル.NHK出版;2022.pp47-53.
3)中井久夫.中井久夫コレクション「思春期を考える」ことについて.筑摩書房;2011.p227.
4)中井久夫.治療文化論――精神医学的再構築の試み.岩波書店;2001.p196, 198.

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