他者理解を促すためのブックガイド
[第6回] パク・チャヌク『別れる決心』①――“他者”のステレオタイプを揺さぶる
連載 小川公代
2023.03.27 週刊医学界新聞(看護号):第3511号より
注意:本記事は映画『別れる決心』のネタバレを含みます。
従来の性規範では,男性には外,女性には家庭の役割がそれぞれ割り当てられてきた。日本では「良妻賢母」という表現があるが,西洋では一九世紀以降,家族のために自己犠牲を厭わない〈家庭の天使〉像1)が流布した。このように他者化される女性は,時に人間に当然あるべきとされる食欲,物欲をはじめ,性的欲望でさえ認められないほど非人間化される。作家のヴァージニア・ウルフは「女性にとっての職業」というエッセイの中で,女性の「天使」像を批判することで彼女らの人間性を回復しようとした1)。その後,女性の内面の葛藤に光が当てられたり,男を破滅させるようなファム・ファタールが描かれたりする文学作品や映画が生み出され,女性のステレオタイプは揺さぶられ続けている。
映画『別れる決心』にも,〈家庭の天使〉というステレオタイプを打破しようとするパク・チャヌク監督の意欲が見てとれる。彼はインタビューで次のように語っている。
私はステレオタイプからの脱却に強い関心があります。「男性はこういうもの,女性はああいうもの」という決めつけや社会的イメージは,実際の個人には当てはまらないことが多い。にもかかわらず,現実世界ではステレオタイプが維持されつづけています。だからこそ,それらを脱却する人物を描きたいんです2)。
彼は『復讐者に憐れみを』(2002年),『オールド・ボーイ』(2003年),『親切なクムジャさん』(2005年)の復讐トリロジーや,『お嬢さん』(2016年)といった過激な暴力シーン・セックス描写のある作品で広く知られる監督である。しかし今作の『別れる決心』で,パク・チャヌクはそのいずれも封印した。ただし,ステレオタイプからの脱却については一貫している。『親切なクムジャさん』で,黙って微笑むヒロインの「天使」像が実は偽装されたものであったと露呈するように,彼は初期の頃から「女性はああいうもの」という規範からの逸脱を図ってきた。天使のように親切だったクムジャさんは赤いアイシャドーをつけ,復讐に燃える女性に変身するが,今回のヒロイン,ソン・ソレもまた一枚岩的な「天使」からは程遠い存在であると言える。
看護師資格を持つケア提供者として熱心に高齢者の世話をするソレは,〈家庭の天使〉を絵に描いたような女性である。しかし彼女は,岩山から転落死した被害者の妻であり,容疑者として捜査線上に浮かび上がる。夫が事故死したにもかかわらず,悲しむこともない。彼女は夫によるDVの被害者で,さらには中国人(=他者)で,母親殺害の疑惑まである。ただ,ソレには夫が殺害された時のアリバイがある。不眠症を抱えた主人公の刑事ヘジュンは,捜査のためにソレを追い,時には取調室で対面しながら,彼女に対する「悪女」と「天使」の両極のイメージの間で逡巡する。ソレがヘジュンに「私は母を専門的に看病したくて看護師になりました。でも母は,看護師なら専門的に殺してほしいと。だから望み通りに見送りました」と告白する時,「ケア」なのか「殺人」なのかという判断は宙づりになる。同僚刑事はソレを「悪女」と信じ込むが,ヘジュンにはどうしてもそう思えない。ソレが彼を寝かせようとする場面で,あえて愛を交わす行動に出ないのは,ヘジュンの不眠症を労っているからであり,彼女の「ケア」は真実に見える。
ヘジュンは思い惑う。もしかしたらソレは刑事である自分を誘惑し,利用しようとしているのかもしれない。ソレは弱々しい存在ではなく,自分の欲望をはっきりと表現して追求する女性であるかもしれない。ヘジュンが抱くソレへの思慕や逡巡とともに,観客の想像力もまた彼女の内面へと誘われ,“他者”をステレオタイプ化してしまう衝動を免れるのだ。
参考文献・URL
1)ヴァージニア・ウルフ(著),出淵敬子,他(監訳).女性にとっての職業――エッセイ集 新装版.みすず書房;2019.
2)稲垣貴俊.『別れる決心』パク・チャヌクが語る,複雑な女性像にかける思い。目指すのはステレオタイプからの脱却.2023.
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