他者理解を促すためのブックガイド
[第5回] 音のないことばの世界『育児まんが日記 せかいはことば』
連載 小川公代
2023.02.27 週刊医学界新聞(看護号):第3507号より
他者を理解するには「ことば」が必要だ。ただ,マジョリティである聴者の世界では,どうしても「音のあることば」が支配的となる。しかし,ろう者である齋藤陽道さんの『育児まんが日記 せかいはことば』1)を読むと,「音のないことば」の世界は親密さや豊かさで満ちていることがわかる。かつて齋藤さんは「聞こえる人のほうがえらい」という強迫観念のようなものにとらわれていたという。しかし,聴者が主に「耳を使って生きて」いるように,ろう者は主に「目を使って生きている」。その「ことば」の多様さに目を瞠らされた。齋藤さんは子どもとも「耳にあてて『うんうん』と音声で答え」る「電話ごっこ」をするのではなく,スマホで「テレビ電話ごっこ」をするなど,ろう者としての身体感覚に近い表現をする。相手に「だいすき」という気持ちを伝える「シッチャカメッチャカ『大』ダンス」というパワフルな身体表現もまた「ことば」なのだ。「聞こえる人がえらい」という偏見を乗り越えさせる,身体的な「ことば」が,齋藤さんの生き生きとした絵と共に表現されている。
聞こえない親を持つ聞こえる子どもを「コーダ」というが,齋藤さんの息子のいつきくんがそうなのである。親に「音を教える」時,例えば弟の赤ん坊が「ないてるよ」と伝える時,その応答としてつい「ありがとう」と言ってしまいそうになる。しかし齋藤さんはそれを必死にこらえる。なぜなら,子どもが音を伝えることで感謝されると,「どんどん音のお手伝いをするよう」になるからだ。自分たちが子どもの「耳に寄りかからない」ための工夫なのだという。妻のまなみさんが車の運転をする時も,チャイルドシートに収まっている弟が泣いているかいつきくんに尋ねるのではなく,「どんな『顔』してる?」と赤子の様子を教えてもらっている。聴者である子どもに音の「通訳」を期待しないようにする実践こそ,子どもが生きているだけで無条件で「うれしい」という歓喜につながる。
漫画で驚くほど生彩を放つ家族たちの表情をとらえた齋藤さんの絵は,長年「相手の顔をじっと見つめ」る習慣によって培われたものだろう。この慈しみが齋藤家の相互依存の原動力になっている気がする。子どもが誕生したことで,齋藤さんはかつて「ただの振動」と思い込んでいた音楽を再発見する。その様子を記録したドキュメンタリー映画『うたのはじまり』には,人間の生の根源にある,名状しがたい何かが発見される瞬間が表現されている。例えば,画家の小林紗織さんが生活音や歌を絵字幕にして映し出しているが,それらの絵字幕の「生々しさ」に触れた齋藤さんは,根源的なものは「容易にことばにならない」と語っている。「感動」の手話は,両手のつまんだ五指が頬の辺りから「じっくりじわじわと,あがっていく」のだそうだ。頭で考えることではなく,まさに「心から脳へと伝わる過程」が表現されている。自分とは異なる身体を持つ他者を理解するための「ことば」の奥深さを知る。
映画『コーダ あいのうた』は,コーダである高校生ルビーの視点から描かれている。ルビーが家業の漁業を毎日欠かさず手伝っているのは,家族の中でたった1人の聴者である彼女が,ろう者である両親や兄にとって,労働者としても,「通訳」としても,戦力になるからだ。ルビーは合唱クラブに入ったことで歌の才能が開花し,クラブ顧問の先生に名門音楽大学の受験を強く勧められるのだが,家業との両立が難しくなり,葛藤する。まさにこれとは正反対なのが齋藤さんたちが実践する子育てである。聞こえる人の常識を打破したところに,人間らしい「ことば」を発見するのである。
参考文献
1)齋藤陽道.育児まんが日記 せかいはことば.ナナロク社;2022.
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