図書館情報学の窓から
[第10回] 新型コロナウイルスに関する研究データ・成果オープン化の動向
連載 佐藤 翔
2020.03.16
図書館情報学の窓から
「図書館情報学」というあまり聞き慣れない学問。実は,情報流通の観点から医学の発展に寄与したり,医学が直面する問題の解決に取り組んだりしています。医学情報の流通や研究評価などの最新のトピックを,図書館情報学の窓からのぞいてみましょう。
[第10回]新型コロナウイルスに関する研究データ・成果オープン化の動向
佐藤 翔(同志社大学免許資格課程センター准教授)
(前回よりつづく)
新型コロナウイルスに関しては本稿執筆時点(2020年2月第3週)で日々,新たな情報が報道されている状況です。2月が流行のピークだ,とする説も出ていますが,掲載される3月時点ではどうなっていることでしょうか。本紙読者・関係者の方々の中にも感染拡大の食い止め等のために活動されている方もいることと考えられ,医療従事者の皆さんには一市民として頭が下がるばかりです。
社会問題としての側面はもちろんのこと,新型コロナウイルスに関してはその研究も非常に急ピッチで進められています。さまざまな論文が短時間で査読を終え,公開されていることなども興味深いところですが,査読前の論文をプレプリントとしていち早く公開する,あるいは研究データそのものを公開・共有することも盛んに行われています。Wiley,Taylor & Francis,Elsevier,Springer Natureといった主要大手学術出版社は新型コロナウイルス関連論文を無料で公開し始め,また生命科学分野のプレプリントサーバーbioRχivには2020年2月13日時点ですでに49件の「2019-nCoV」関連論文が掲載されていました。さらに2020年1月31日に英国の医学研究助成機関Wellcome Trustが発表した新型コロナウイルスに関する研究データ・研究成果の広範かつ迅速な共有に関する声明には,2月13日時点で97もの団体・出版社等が署名しています1)。
*
感染症の国際的な拡大に当たって,研究成果やデータを常になくオープンにし,必要な誰もが入手できるようにしよう……という試み自体は,以前から行われていました。近年では2014年の西アフリカでのエボラ出血熱流行時に,いくつかの出版社が関連論文を無料で公開しています。また,2015~16年の中南米におけるジカ熱流行,2018年のコンゴにおけるエボラ出血熱流行に当たっては,今回と同様に研究成果やデータの共有に関する声明が発表されています。
いずれの声明においても,関連する論文は無料で公開すること,研究成果を事前にプレプリント等として公開しても「既発表」扱いとしない(発表済みとして投稿を断るなどしない)こと,研究途中あるいは完了後のデータを公開すること等が求められています。ただ,2016年のジカ熱流行時の声明署名機関は57で,2018年のエボラ出血熱流行時では25にとどまっていました。
新型コロナウイルスに関する声明の署名機関ははるかに多く,過去の署名には参加しなかったElsevierなどの大手商業出版社も参加しています(大手の中でもSpringer Natureは2016年の署名には参加したものの,2018年は不参加。その他の主要大手出版社は今回,初参加)。直近のオープンアクセス・オープンサイエンスの潮流によるところもあるでしょうが,それ以上に,新型コロナウイルスの感染拡大が各国にとってより危機的にとらえられていることの証左とも考えられます。
声明の内容も,新型コロナウイルスに関しては過去に比べてより具体的な指示となっています。まず既に出版されているものも含め,関連する査読論文について,オープンアクセスとして公開するか,少なくとも感染拡大中は無料で公開することが出版社には要求されています。「無料で公開」と「オープンアクセス」の差ですが,オープンアクセスの場合には再利用を認める等のライセンス付与も求められるので,「そこまでは……」という出版社に配慮してのことでしょう。また,関連する研究が雑誌に投稿された場合には,その段階で出版社ないし著者がWHOと共有することも定められています。
さらに研究成果は査読前の段階でも,プレプリントサーバー等を通じて,しかも元データが手に入る場所も明示して公開する,とされています。研究者に対しては途中段階あるいは最終のデータを,データ収集等のプロトコル付きで,可能な限り広く共有することも求められます。さらに,そうしてプレプリントやデータを公開した場合でも,出版社は「既発表」扱いとはしない……というのは従来の声明同様です。
多くの出版社・助成機関等が声明に参加していますし(日本からもAMEDと武田薬品工業が参加しています),今後,新型コロナウイルスに関する研究情報の共有は安心して,迅速に進めることができると考えられます。むしろ声明発表以前から,多くの研究者がプレプリントを公開していたことを思えば,研究者たちの側にもこの問題については慣習にとらわれず,迅速に情報交換をしていかなければいけない,という強い思いがあったのでしょう。
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ただ,常にない注目を浴びている問題に関する査読前のプレプリントが流通することには,懸念がないでもありません。連載第3回(第3333号)でも触れた通り,医学分野ではかねて,健康・生命にかかわりかつ多くの人が興味を持つこの分野において,査読前の情報を共有することへの忌避感が存在しました。それでも慎重にプレプリント公開の試みが行われ,さほど大きな問題を起こさなかったため,臨床医学分野のプレプリントサーバー公開等が実現するまでに至ってきたわけです。
しかし新型コロナウイルスをめぐるプレプリントの中でまさにそうした問題が現実になる例が出ています。一部で話題になりましたが,新型コロナウイルスにHIVウイルスと「不気味なほど(uncanny)」類似したタンパク質が含まれると主張するタイトルのプレプリント2)を,インドの研究者らがbioRχivに投稿したのです。抄録の中では「自然界で偶然起こるとは考えにくい」など,暗に人為的な関与を示唆するような文言が述べられていました。著者らは後に「陰謀論にくみするつもりがあったわけではない」等とコメントしていますが,もともと「新型コロナウイルスは武漢の感染症研究施設から流出した,人為的に生み出されたものだ」とする風説があったこともあり,一部で大きな反響を生みました。
最終的にこのプレプリントに対してはそもそも,主張されている類似が偶然起こり得ないようなものではない,という指摘が多くの研究者から寄せられ,ほとんど炎上状態になって2日で撤回されました。雑誌に掲載された論文に誤りが見つかっても,撤回には何年もかかる場合があるのだから,これだけ迅速に撤回されたのはプレプリントに対する研究者の批判が健全に機能している証しだ……という主張もあります3)。とは言えそもそも査読があれば,陰謀論めいた言説を含むタイトルや抄録が素通りすることはなかったのではないかとも考えられます。
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この件を受けてか,現在,bioRχivでは全プレプリントに「bioRχivには現在,新型コロナウイルスに関するプレプリントが非常に多く投稿されているものの,それらは査読を受けていない段階にあるものであって,何らかの結論が出たものと解釈したり,臨床実践等に用いたり,ニュースメディア等で取り上げるべきではない」と注意喚起が表示されるようになりました(図)。ただ,そもそも真っ当な医学根拠等何もない風説ですら流布するようなネット空間で,この注意喚起がどれだけ真摯に受け止められるのかは難しいところです。医療従事者やファクトチェックのあるメディアにおいてはさておき,アクセス数を得ること自体が目的のようなメディアにおいては,どこまで通じたものでしょうか。プレプリントが新たなフェイク情報の産出元になる,等というのはオープンアクセス関係者としてはなんとか避けたいシナリオなのですが……。
図 bioRχivに表示される,新型コロナウイルス関連報告への注意喚起のキャプチャー画面 |
とまあ一抹の不安があるとはいえ,全体としては新型コロナウイルスに関する研究成果の共有はこれまでのところ,常になく迅速に回っているように見えます。それがワクチンの開発や感染拡大の防止等,迅速な沈静化に結び付いていくのであれば,医学分野においてプレプリント公開やデータ共有が積極的に行われることの意義を示す機会ともなるのではないでしょうか。
(つづく)
参考文献
1)Wellcome Trust. Sharing research data and findings relevant to the novel coronavirus (COVID-19) outbreak. 2020.
2)Pradhan P, et al. Uncanny similarity of unique inserts in the 2019-nCoV spike protein to HIV-1 gp120 and Gag. bioRχiv. 2020.
3)Oransky I, et al. Quick retraction of a faulty coronavirus paper was a good moment for science. STAT. 2020.
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