医学界新聞

対談・座談会

2017.03.06



【対談】

社会疫学が解明する「健康格差」とその対策
ソーシャル・キャピタルが健康を守る
近藤 克則氏(千葉大学予防医学センター社会予防医学研究部門教授/同大大学院医学研究院公衆衛生学教授/国立長寿医療研究センター老年学・社会科学 研究センター老年学評価研究部長)
イチロー・カワチ氏(米国ハーバード公衆衛生大学院 社会・行動科学部長/社会疫学教授)


 “健康の社会的決定要因”を研究する学問「社会疫学」の進歩により,日本でも健康格差の問題が脚光を浴びている。健康格差の縮小に向けて医療者は何ができるのか,興味を持つ人も増えてきているのではないだろうか。

 本紙では,社会疫学研究の第一人者であるイチロー・カワチ氏と,このたび『健康格差社会への処方箋』(医学書院)を刊行した近藤克則氏に,健康格差社会の解消に向けた社会疫学の最新知見をお話しいただいた。


近藤 カワチ先生との対談は2004年以来です(本紙第2566号『「社会疫学(Social Epidemiology)」とは何か?』)。当時の日本では社会疫学という学問はまだあまり知られておらず,「健康格差があること」を知ってもらうところからのスタートでした。それから13年,社会疫学の進歩により「健康格差」の存在が浮き彫りになってきました。

カワチ そうですね。今では広く認識され,研究面でも「健康の社会的決定要因(SDH)の探索」だけでなく,「機序の解明」が進みました。そしてさらに,科学的知見を応用した「対策」へと向かっています。

近藤 この十数年でのエビデンスの増加は,カワチ先生が編者の一人である『Social Epidemiology』第2版のページ数が,初版の1.5倍以上になったことからもわかります。2009年のWHO総会決議や日本の「健康日本21(第二次)」(2013~22年度)などの政策目標に「健康格差の縮小」が掲げられ,臨床医の間でも関心が高まっています。2016年には日本プライマリ・ケア連合学会に「健康の社会的決定要因検討委員会」が設置され,日本小児科学会の特別講演では五十嵐隆先生(国立成育医療研究センター)が子どもの貧困問題を正面から取り上げました。NHKスペシャルやビジネス誌でも健康格差特集が組まれるなど,社会的にも注目を浴びています。

最も効果的な政策は,早期教育,雇用環境,保険制度整備

近藤 健康格差とは,「地域や社会経済状況の違いによる集団における健康状態の差」と定義されます。「健康は自己責任」「格差は必要悪」という考えが根強くありますが,個人の責任を超えた社会的要因の影響が明らかになってきています()。

 社会経済的因子が健康に影響するプロセス1)

 まず,これまでに蓄積された社会疫学の知見から,健康に影響する社会的要因にはどのようなものがあるのかを教えてください。

カワチ さまざまな要因がありますが,対策のエビデンスが明確に出ているのは,教育と雇用環境,そして医療保障制度です。

 教育では,特に早期教育が重要です。一般に「教育への投資」と言うと,高卒・大卒率の向上や教育内容の話になりがちですが,一番効果があるのは幼年期(4か月から3歳まで)への介入だということがわかっています。

近藤 米国では,就学前教育への介入を行い,その後数十年にわたって追跡した研究がいくつかありますね。

カワチ その一つはAbecedarianプロジェクトです。実験開始時の年齢が生後4か月から5歳までの子ども111人を対象に,早期教育を行う群と全く行わない群にランダムに割り分けました。30年間の追跡研究の結果,教育を行った群では,10代の妊娠,高校中退率,喫煙率,薬物依存などを含む犯罪率,肥満率などが有意に低下し,大学進学率や収入が上昇しました。

近藤 義務教育前の介入でそんなにもさまざまな影響があるとは驚きです。

カワチ 8歳でピタッと介入をやめても,その後何十年もの間,影響し続けることが示されました。非常に興味深い研究です。

 また,義務教育の年数についても影響が研究されています。米国では州ごとに義務教育年数が異なるため,自然実験的なデータを活用できるのです。例えば,50年前にマサチューセッツ州で生まれた子どもの義務教育は最低でも10年,一方テキサス州は5年でした。全50州を対象とした分析から,義務教育年数が長いほど全教育期間も平均して長く,かつ全教育期間が長いほど,老後の認知症率が低いことが明らかになりました。

近藤 日本においても,子ども時代の影響を示す疫学研究が報告されています。私たちが取り組むJAGES(Japan Gerontological Evaluation Study;日本老年学的評価研究)プロジェクトでも,教育歴が短い,15歳時に貧困にさらされた,子ども時代に虐待に遭ったといった方ほど,高齢期のうつ,残存歯数,認知症リスク,要介護認定などの多くの健康指標が悪いという関連がみられます。

カワチ 幼年期教育には莫大な予算が必要なこともあり,どの国でもまだしっかりとした取り組みは始まっていません。しかし,ノーベル経済学賞を受賞したジェームズ・ヘックマンの分析では,幼年期教育のコスト効率は1.17,つまり教育のための投資100円に対して,117円の経済効果があることが明らかになっています2)

近藤 『Science』誌に掲載された論文では,より早期の教育ほど効果が大きいことが示されましたね3)。あれはインパクトがありました。

カワチ 成果が出るまでに1世代(30年)かかるため,短期的な成果を重視する政治家はなかなか動きたがらない傾向がありましたが,各地で働き掛けが進んでいます。ニューヨークではビル・デブラシオ市長が,貧しい子どもたちの早期教育プログラムを開始しました。幼年期は「本人の責任」が問えない段階であるため,介入を行うことに対する社会からの不満も少なく,長期的視点で見れば費用対効果が高いというエビデンスが出ているので,絶対に実行すべき政策だと思います。

このままでは日本が長寿大国でいられるのはあとわずか

カワチ 米国は今,健康格差という面では将来が不安な状況です。オバマケアにより米国民に占める無保険者の割合は2015年には9.1%(2900万人)にまで減少しましたが,今後もそれが維持されるかはわからないからです。オバマケア以前の米国においては,個人の破産理由の1位は,なんと医療でした。急病で高額な医療費を請求されたり,療養中に仕事ができず所得が減ったりすることが原因です。オバマケア導入前にマサチューセッツ州で行われた検証実験では死亡率が有意に下がりました4)。オバマケアが廃止されたら,全米で年間3万人死亡者が増えると予測されています。

近藤 オバマケア施行後の調査で,オレゴン州ではメンタルヘルスなどの主観的指標の改善が報告されています。観察期間が延びれば,客観的指標にも改善があるかもしれません。

 一方,日本の懸念材料は不安定雇用です。総務省の2015年労働力調査によると,非正規労働者は1980万人になり,全就業者の3分の1を超えました。

カワチ 日本は終身の正規雇用が一般的なイメージでしたが,それはもはや過去のことになっているのですね。

近藤 はい。ある程度の経済格差は労働者のモチベーションになるかもしれませんが,格差が大きすぎると,経済的に豊かな国であっても,高所得者を含めた国民全体の健康水準が悪化することがメタアナリシスで示されています5)。所得格差を表すジニ係数が0.3を超えると,0.05増えるごとに死亡率が8%高まります。厚労省の2014年所得再分配調査報告書によると,日本は0.38(所得再配分後)で,社会騒乱多発の警戒ラインとされる0.4よりは低いものの,高齢者層だけでなく青年層でもジニ係数と死亡率の上昇が見られているそうです6)

カワチ 米ワシントン大保健指標評価研究所が行った疾病負担研究によると,長寿大国と言われてきた日本の寿命延伸は頭打ちで,近いうちに他の先進国に追い抜かれる見込みです7)

近藤 雇用環境は,経済的安定だけではなく,潜在的能力開発の機会,衣食住,家庭環境,犯罪率などにも影響を及ぼし,健康状態に直結します。生涯未婚率の上昇や相対的貧困児童の増加といった問題の背景要因でもあり,このまま放置することには危機感があります。

日本で進む,世界最先端の社会疫学研究

近藤 健康格差対策の重要性はわかっても,政策を動かすのは簡単ではありません。合意を得やすい介入策の1つとして,人々のつながりやそこから得られる信頼,助け合いを意味する「ソーシャル・キャピタル」に可能性を感じ,研究をしてきました。

カワチ 近藤先生が代表を務めるJAGESと私が共同で取り組む2つのプロジェクトから,そのヒントが得られると思います。

 1つは,米国立衛生研究所(NIH)からの研究助成も受けている岩沼プロジェクト。これは,JAGESが全国31市町村の高齢者を対象に,2010年時点の健康状態とSDHを調査していたことで可能となった自然実験デザインの研究です。調査7か月後の2011年3月に起きた東日本大震災の被害を受けた宮城県岩沼市において,震災前のソーシャル・キャピタルなどが被災後の健康にどのような影響をもたらしているかを研究しています。

近藤 被災者の健康状態についての研究は昔か...

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