医学界新聞

 

〔対談〕「社会疫学(Social Epidemiology)」とは何か?

Ichiro Kawachi氏
Professor of Social Epidemiology Department of Society,
Harvard School of Public Health
近藤克則氏
日本福祉大学教授・地域ケア研究推進センター




 Prof. Ichiro Kawachiは『Social Epidemiology』1)や『The Health of Nations』2),『Neighborhood and Health』3)などの共編者・共著者であり,社会疫学の第一人者として世界的に著名です。『Social Epidemiology』も『The Health of Nations』も,『New England Journal of Medicine』の書評で取り上げられ,“extraordinary(尋常でない)work”で,「将来古典と呼ばれるであろう」などの高い評価を得ています。
 Kawachi教授は一連の著書の中で,経済格差の拡大は国民の健康状態を悪化させると警告しています。日本でもリストラが進められる一方で,能力給・成果給が導入されるなど,経済格差が拡大してきており,教授の警告はわが国にも重要な示唆を与えてくれます(近藤記)。
(編集部注:この対談は2003年6月11日,ハーバード大学公衆衛生学大学院で行なわれ,近藤氏がその内容を翻訳しまとめたものである)


著作に込めた2つのメッセージ

近藤 はじめに,一連の本に教授が込められた重要なメッセージについてお聞かせくださいますか。
Kawachi メッセージは2つあります。
 1つは,国民の健康には社会的な要因が大きく影響していることです。遺伝子レベルの疾患の解明や医学的ケアの進歩が国民の健康に寄与するのは,間違いありませんが,それだけが国民の健康状態を決めているわけではありません。「健康の社会的決定因子(social determinants of health)も大きく影響しています。所得など経済的因子や所得分配の状況,労働条件や質,ストレス,近隣の人々や地域環境など物理的・社会的・心理的な環境も重要な健康の社会的決定因子だということです。
 2つ目は,経済格差の拡大を放置すべきではないというメッセージです。地球規模で経済活動が進むグローバリゼーションのもとで,経済格差が,国の間でもひとつの国の中でも拡大しています。富める者はますます豊かに,貧しい者はますます貧しくなっています。
 例えば,アメリカのCEO(最高経営責任者)の給与を製造業の一般労働者の給与と比較すると,1960年代には39倍でしたが,1997年には254倍にもなっています。この経済格差の拡大は,貧しい人々の健康状態の悪化に加え,富める人々も含めた国民集団の健康状態の悪化と強い関連を示す実証データが得られています。政府や社会は経済格差を放置せず,軽減するような積極的な役割を果たすべきです。

「相対的所得仮説」と「Gini係数」

近藤 日本でも,景気の停滞のもとで経済的困難に直面した中高年の男性を中心に,自殺がおよそ3倍に増えています。また,所得格差の大きさを示す「Gini(ジニ)係数」が日本でも上昇してきており,不平などが拡大しています。
 貧困層に病気が多く死亡率が高いことは,古くから知られていますが,所得格差が大きいことが健康に悪影響を及ぼすという「相対的所得仮説」は新しい理論・仮説ですね。これについて説明してください。
Kawachi 貧困,つまり「絶対的な所得の欠乏」が不健康をもたらす,という絶対的所得効果があることは,広く受け入れられています。低所得層では,食べ物が十分に得られなかったり栄養に偏りがあったり,住環境や衛生状態が悪くて病気にかかりやすく,いったん病気になると医療にかかりにくかったりするからです。「相対的所得仮説」は,この「絶対的所得仮説」とは異なります。「先進国においては,他の人と比べた相対的な所得レベルが低いことも,不健康をもたらす」という仮説です。
 図1を見てください。平均寿命と国民一人あたりのGDPの大きさの関係を見ると5000ドルあたりまでは,所得が高くなるほど寿命が急速に伸びています。これは絶対的所得仮説で説明できます。しかし,それ以上のレベルの先進国になるとほぼ頭打ちです。

 そこでOECD(経済開発協力機構)に加盟する主要な先進国について,寿命とGini係数の関係を示したのが図2です。

 ごらんの通りGini係数が大きく,所得格差の大きいアメリカ,西ドイツなどで寿命は短くなっています。一方,平等な国では,寿命が長くなっています。
近藤 私もイギリス留学中にこれを見て驚きました。さっそくイギリスの政府統計を用いて追試し,同様な結果を得たのが, Kawachi先生との出会いのそもそものきっかけでした。

「所得格差の拡大」が不健康をもたらすメカニズム

近藤 しかし,相関関係があっても因果関係があるとは限りませんね。
 例えば,糖尿病は文明病ですから,その数は電柱の数が増えるほど多いそうです。しかし,電柱から出る電磁波のために糖尿病になると言えば,もうこれは新興宗教のカルト集団です。納得できるメカニズムを示す必要があります。
Kawachi なぜ所得格差の拡大が不健康をもたらすのか,そのメカニズムについても理論的実証的研究を進めています。
 経済格差が拡大すると,より豊かな人と比べ相対的に貧しい層が体験する社会的心理的ストレスの大きくなることが関与していると考えています。
 自分の年収が500万円で他の人が1000万円の状態と,他の人が100万円で自分が300万円の状態とどちらが良いか選んでもらうと半数以上の人が絶対的所得が低くても相対的な所得が高い後者を選ぶという報告があります。これは相対的な低所得によるストレスを避けたいという思いを反映しているのでしょう。
 また,図3に示したように犯罪・殺人率も経済格差の大きい州ほど高いこともわかっています。

近藤 そういえば日本でも最近は,個人的な動機のない「通り魔」による傷害や殺人などが増えています。動機が解明されないものもありますが,犯人が「自分だけが報われない社会を恨んでやった」と動機らしい言葉を漏らした例もあります。

「社会疫学」とは何か

近藤 Kawachi先生は,相対的所得仮説だけでなく,社会疫学という新しい分野を開拓しました。社会疫学とはどんな分野なのでしょうか。
Kawachi ひと言で言えば,健康の社会的決定因子を研究する分野です。
 健康に影響する因子には,「遺伝子」,「ライフスタイル」,「医学技術」などがありますが,これら以外に「社会的な因子」もあります。相対的所得仮説で扱う所得の不平等や絶対的貧困以外にも,「労働環境からくるストレス・過労死」,「人種差別・男女差別」など多数あります。心身医学が人間の心も扱い,伝統的な疫学が心の外側の健康行動に着目しました。
 分子生物学などのバイオサイエンスは,心を持った人間個人のレベルよりも,目に見えないよりミクロな世界に踏み込むフロンティアです。これに対し社会疫学は,1人の人間よりもマクロな世界に着目し,健康に影響する社会的な因子を明らかにしようとするフロンティアです。

「社会疫学」が登場した背景

近藤 それではなぜ今,社会疫学が登場したのか,その背景にあるものは何であるのか,ということを考えてみますと,私は3つくらいの理由があると思っています。
 まず第1に,経済格差の拡大が進んだことなど社会的因子による健康の不平等が関心を集めるようになった社会的状況です。
 第2には,昔は考えられなかった数万人から数十万人規模の巨大なデータベースが,研究目的ならば二次利用が可能になってきたことです。そして第3に,それらを扱い分析できる強力なコンピューターや統計手法が開発されてきたことなどの,方法論上の進歩があげられると思います。
 先生はその他にはどのような背景があるをお考えでしょうか。
Kawachi 遺伝子や分子生物学など,ますますミクロな世界に向かう医学のあり方に対する反動・反応という側面もあると思います。あまりに多くの資源がよりミクロな医学研究に集中しています。しかし,すべての現象が遺伝子で説明できるわけではありません。
 アメリカでは,3人に1人が肥満ですが,これもここ20年ほどの間に急増したものです。20年間に遺伝子が変化したとは思えません。日本人は世界一の寿命を誇っていますが,アメリカに移住した日本人の寿命は,アメリカ人のそれに近づきます。
 つまり,遺伝子以外にも,社会や文化,環境も健康に影響しているのです。すべての研究資源を,ミクロに向かう研究に投入することに疑問を持ち,社会的因子も研究すべきだと気づいた研究者が増えてきたのだと思います。

従来の「社会医学」との相違

近藤 社会と病気の関係に着目した社会医学は以前からありますが,何が違うのでしょうか。
 実証的分析をより重視していること,単に関連を明らかにするだけでなく,社会と健康の関連メカニズムを解明しようとしていること,そのメカニズムとしてストレスなど個人の心理的要因も関心領域の中に取り込んでいること,これらにもとづき社会のあり方も考察していることなどの点があると思いますが,他にはどうでしょうか。
Kawachi 社会医学は社会疫学の源流です。人によっては社会医学の復活と呼ぶ人もいます。指摘されなかった違いとしては,学際性があります。社会疫学的研究に取り組んでいる研究者には,社会学,統計学,心理学,政策科学,医療経済学など近接する他分野出身の人が多数います。
 また,経済学者も参加しています。どちらかといえば,相対所得仮説を批判する立場から関心を持つ人が多いのですが。

「社会疫学」が貢献できること

近藤 社会に病気を生みだす要因があることが明らかとなったとしても,はたして,そこに介入して効果を上げることはできるのでしょうか?
Kawachi 革命を起こせば効果があるでしょう(笑)。健康政策を考える際に,時に社会疫学が貢献できるのは,個人の健康行動選択や医学的治療への介入などでなく,より外側にある社会への介入策を検討する視点を提供することです。
 例えば,タバコやアルコールへの課税を強化したり,税金による所得の再分配を強めたり,長時間労働を制限したりすることです。環境に働きかける例として,気管支ぜんそく治療の質改善をめざす取り組みに,地域の人々にも参加してもらう無作為化対照比較試験が現在進行中です。

日本の「社会疫学研究」への期待

近藤 近隣といえば,社会疫学の本では,日本がよく例として取り上げられます。13歳まで日本に暮らした先生ご自身の経験も踏まえ,日本における社会疫学的研究への期待や可能性についてお聞かせください。
Kawachi 私が社会疫学に関心を持った背景には,日本,ニュージーランド,アメリカというまったく異なる3つの国に暮らし,異なる社会や文化を比較してきた経験があります。
 ご指摘のように,私は13歳まで神奈川県に暮らしていました。近隣の家族ぐるみで,花見やなし狩り,芋掘り,餅つきなど,一年中社会的なつながりがありました。私が社会と健康の関連メカニズムとして,「social capital(人間関係資本)」に着目するのは,日本の社会が持っていたsocial capitalの豊かさが,地域で暮らす人々の社会的ストレスを緩和する効果があると直感的に信じられるからです。
 また,ニュージーランドで医学部を出て医学博士号をとった頃は医療経済学に関心がありました。その頃の経験が経済的因子への関心を高めました。そして,その後31歳の時にアメリカに来ました。そこで見た経済格差の大きさが,相対的所得仮説への関心を育てました。
 社会疫学の視点から見ると日本は大変興味深いケーススタディの対象です。日本人は世界で最長寿ですが,喫煙率も高い国です。なぜでしょう。昔に比べれば薄れてきているでしょうが,他の国,特にアメリカに比べれば,はるかに平等主義が浸透していますし,地域での人々の結びつきは今でも強いと思います。これらの因子が,日本人の長寿に貢献していると思います。
 『Social Science & Medicine』のchief editorをしていて感じるのですが,基礎医学研究分野では,日本から国際誌に論文が載るようになりました。社会疫学分野からも,日本人がなぜ世界一長生きなのか,その社会的決定因子を解明して,ぜひ世界に発信してほしいと思います。
近藤 私事で大変恐縮ですが,私も21世紀COEプログラム(社会科学分野)に採択された日本福祉大学の研究プロジェクトの推進担当者です。その一環として,3万人規模の社会疫学的コホート研究に着手しています。いずれその成果をご報告し,また,こうして意見交換したいと思います。
 それから,雑誌『公衆衛生』(医学書院発行)に今年から1年間「New Public Healthのパラダイム-社会疫学への誘い」という新しい連載を開始いたしますので,ご期待ください。本日は,長時間どうもありがとうございました。
 (このハーバード大学院への訪問は,科学研究費補助金〈14310105〉の助成を受けたものである:近藤記)

[参考文献]
1)Berkman LF, Kawachi I: Social epidemiology. Oxford University Press, New York, 2000.
2)Kawachi I, Kennedy BP: The Health of Nations. The New Press, New York, 2002.
3)Kawachi I, Berkman LF: Neighborhoods and health. Oxford University Press, New York, 2003.
4)Wilkinson, R. G.: Unhealthy societies: The Afflictions of inequality. Routledge, London, 1996.