医学界新聞

連載

2011.03.14

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第193回

アウトブレイク(8)

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2918号よりつづく

 ここまで天然痘ワクチンの歴史を概観してきたが,「20世紀半ばまでの近代医学の進歩は感染症学の進歩であった」と言っても過言ではない。

 しかし,19世紀後半以降めざましい進歩をとげた感染症学の中で,医学研究者を一番悩ませた疾患は何であったかというと,それは黄熱(yellow fever)だったのではないだろうか。致死率が著しく高かった上,病原体の同定が困難を極めたこともあり,野口英世はじめ研究者自身が黄熱の犠牲となって命を落とす例が跡を絶たなかったからである。

黄熱ワクチン開発と軍事的圧力

 20世紀初め,米国において黄熱の予防法確立に向け力を注いだ団体が二つあった。その第一は米軍であったが,米西戦争(1898年)後,キューバに駐留するようになった米軍にとって,兵士の黄熱感染を防止することが喫緊の課題となったからにほかならない。1900年,軍医ウォルター・リードらが「蚊(熱帯シマカ)媒介説」を実験的に証明,蚊の駆除が感染防止に有効であることが示された(註1)。

 黄熱感染防止に力を注いだ団体の第二は,1913年に設立されたロックフェラー財団であった。すでに姉妹組織のロックフェラー医学研究所(1901年創設)は最先端研究施設としての定評を確立していたが,基礎研究の成果を人類の健康増進に応用することが財団の最優先目標とされ,「黄熱の根絶およびワクチン開発」もその使命に含められた。野口英世をはじめとして,世界中から高名な研究者を招き寄せて黄熱研究を推進したのである。

 かくしてロックフェラー財団は黄熱研究の世界的中心となったのだが,1920年代後半以降,同財団の黄熱研究責任者として,精力的にワクチン開発を推し進めたのがウィルバー・セイヤーだった。室長となって間もなく黄熱ウイルスの長期保存法を開発すると,1931年には史上初めての黄熱ワクチン開発に成功した。しかしセイヤーのワクチンは病原性が強かったため,発病を防止するには大量のヒト抗血清の同時投与を必要とし,大規模予防接種に用いるには極めて非実用的なワクチンであった(註2)。そこで,ロックフェラー財団はセイヤーが開...

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