医学界新聞

2010.03.29

MEDICAL LIBRARY 書評・新刊案内


《神経心理学コレクション》
街を歩く神経心理学

高橋 伸佳 著
山鳥 重,彦坂 興秀,河村 満,田邉 敬貴 シリーズ編集

《評 者》酒田 英夫(前・日大教授 神経・筋肉生理学)

地理的失認の症例について詳述した,シリーズ異色の一冊

 1960年代のはじめに時実利彦さんの『脳の話』と共に岩波新書のベストセラーになった『動物と太陽コンパス』の著者の桑原万寿太郎さん(動物行動学)はまえがきの中で,「鳥の渡りや動物の帰巣性の問題は遠い祖先の時代から人々の関心の的であった」と書いている。太陽コンパスとは,ムクドリが渡りの時期に太陽の位置から遺伝的に決まった渡りの方向を読み取る仕組みを指す。桑原さんは,時刻に関係なく方位を読み取るには体内時計が必要であると論じている。当時まだ発見されていなかった体内時計は,今では誰でも知っている時差ぼけの原因となる神経核で,視床下部にある。渡り鳥や伝書鳩では,方位を知らせる磁気センサーが発見されている。では,磁気コンパスのない哺乳動物はどのようにして巣に帰るのだろうか。

 1948年,実験心理学のTolmanはラットの迷路学習の訓練中にたまたま迷路の上に載せたラットが一直線に餌のある場所に走っていくのを見て,動物の頭の中に広い範囲の認知地図があるに違いないと考えた。それ以来,認知地図は本当にあるのか? あるとしたら脳のどこにあるのか? という議論が繰り返されている。1971年にラットの海馬に場所細胞を発見したJohn O'Keefeは『The Hippocampus as a Cognitive Map』という本を書いて,海馬に認知地図がある可能性が高いことを示唆した。しかし,実はそれよりずっと前の1918年にイギリスのGordon Holmesが,第一次世界大戦中に頭頂葉を撃ち貫かれた兵士の中に,眼が見えるのに障害物にぶつかったり,病院の中で道に迷って自分のベッドに帰れない患者さんがいることに気付き,視覚的見当識の障害として報告した。

 著者の高橋伸佳さんが診たタクシー運転手の患者さんの症状はもっとドラマチックである。K駅前で乗客を乗せたときに突然行き先がどの方角かわからなくなり,営業所に戻ろうとして,やはり方角がわからないので,ほとんど交差点ごとに見慣れた街並みの記憶と照合しながらようやくたどり着いたということである。MRI検査で脳梁のすぐ後ろで右側の膨大後皮質にほぼ限局した病巣が発見された。左膨大後皮質の損傷でエピソード記憶の障害が起きることが知られているので,この領域は顕著な左右差があることがわかったのである。

 著者は1992年の日本神経心理学会で,地理的障害を2つに分けて,1つは道標となる建物や風景がわからなくて起きることから「街並失認」と,もう1つは目的地の方角がわからなくて道に迷うことから「道順障害」と名付けた。

 街並失認の典型例は,右海馬傍回に病変があり自宅の外観を全く思い出せないが,自宅から病院までの地図はかなり正確に描けるし,自宅の間取りも描ける。しかし,自宅付近で道に迷うというケースであった。単純化していえば目的地の方角はわかるので,その近くまでは行けるが最後に必要な家や通りの風景がわからないために目的地に着けないと考えられる。

 一方,道順障害の典型例として著者が挙げているのは病院内で道に迷うだけでなく椅子に背中を向けて座ることができないケースである。おそらくは直接目に見える空間の外の,広い空間の表象が失われたためと考えられる。病巣は楔前部を含む頭頂葉内側面であった。著者はこれらの症状のメカニズムを理解するために役立ちそうな脳機能画像の実験やサルのニューロン活動の記録などを紹介している。例えばRussell EpsteinとNancy Kanwisherが1998年に発見した海馬傍回場所領域などは屋内と屋外の情景の写真で賦活される領域で,街並失認の説明にはぴったりである。まだまだ謎の多い失認症ではあるが解決の糸口になりそうな研究が始まっている。冒頭に著者自身が所属していた昭和大学病院の地理的探索の実例を示してから,いろいろな地理的失認の症例についての詳しい記述を集めた本書は神経心理学コレクションの中でも異色の一冊で,専門家にとって示唆に富むと同時に一般の読者にも楽しめる本である。

A5・頁200 定価3,150円(税5%込)医学書院
ISBN978-4-260-00644-6


人工膝関節置換術
手技と論点

松野 誠夫,龍 順之助,勝呂 徹,秋月 章,星野 明穂,王寺 享弘 編

《評 者》安田 和則(北大大学院医学研究科科長/北大医学部長)

知的好奇心に生き生きと語りかけてくる

 本書は全15章,本文336ページから成る堂々たる医学専門書で,筆頭編集者は北海道大学医学研究科整形外科学分野名誉教授の松野誠夫先生です。そして人工膝関節置換術の領域で大きな業績を上げておられる龍順之助,勝呂徹,秋月章,星野明穂,王寺亨弘の5人の先生方も編集を担当されています。松野先生は人工膝関節を膝関節疾患の治療体系へ導入するための臨床研究をわが国で最も早く開始されたお一人で,人工膝関節置換術の研究をライフワークの1つとしてこられました。本書の企画と上梓は松野先生の指導の下でなされ,前著である『人工膝関節置換術――基礎と臨床』(文光堂,2005年)に続いて松野先生の長年のご研究を集大成する1冊になっています。

 人工膝関節置換術は幾つかの手術工程の成功の積み重ねによって,最終的成功が導かれる大変難しい関節手術です。最近では,手術用機器を使うのではなく,“使われている” ような初心者が,「人工膝関節置換術は易しい手術である」などと錯覚することがあるのは大変嘆かわしいことです。本書は,整形外科医がこの難手術を真に成功させるために必要な知識と手...

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