医学界新聞

連載

2008.05.12



名郷直樹の研修センター長日記

52R

時々の初心

名郷直樹  地域医療振興協会 地域医療研修センター長
東京北社会保険病院 臨床研修センター長


前回2776号

●月△日

 新しい研修医がやってきた。この春医師になったばかりの研修医たち。新たな夢や希望に胸を膨らませて,と同時に大きな不安も抱えながら。私自身が5年前に,臨床のポストを兼ねない教育専任医師という立場で,へき地診療所を離れて新しい職場へやってきたときと同じように,かどうか本当のところはわからないが。またへんなことを考え始める。私と同じように,でいいじゃないか。なぜ,わざわざ,同じかどうか本当のところはわからないなんて言い出すのか。

 

 私自身はどんな夢や希望を持っていたのだろうか。20年以上も経つと,もうなんだかわからなくなっている。大体は夢や希望はやせ細る。夢や希望が現実的に達成されるためには仕方のないことではあるが。しかしそれは考えようによっては最初の夢は肥満体なのかもしれない。そうだとすれば,やせたほうがいい。とはいえ,やや肥満体のほうが長生きだというエビデンスもあり,何がなんだかわからない。肥満したままの夢を持ち続けたほうが長生きできる。夢が実現するかどうかは別として,長生きという点では,確かにそういう気もする。

 

 初心忘るべからず,という。これは世阿弥の「花鏡」の言葉だそうだ。

 

是非とも初心忘るべからず
時々の初心忘るべからず
老後の初心忘るべからず

 

 初心とは最初の夢や希望のことだと思っていた。しかし,もともとの意味は,未熟な時代の失敗を忘れるな,ということらしい。夢や希望なんてどうでもいいのだ。どうせ肥満体だし。さらにその未熟な時代というのは修行の最初にあるだけではない。最初の未熟さが乗り越えられたら次の未熟さが明らかになり,それを乗り越えるとまたその次,というように終わりがない。修行のそれぞれの段階によって,形を変えて常に未熟さはある。違うレベルでの失敗がある。初心というのは,修行のステップに沿って形を変えていくものなのである。それを「時々の初心」「老後の初心」と呼んでいる。なるほど。自分自身の場合,時々の初心という段階だろうか。当初の希望や夢など忘れてしまったほうがいいのかもしれない。

 苦い経験も忘れていないようで案外忘れている。しかしそれはそれでいいのかもしれない。忘るべからずと言うくらいだから,初心は忘れやすい。逆に忘れやすい初心を,忘れてはいけないと肝に銘じて,ずっと忘れずにいると,どうなるか。それは次の進歩を阻害する。最初の初心から,「時々の初心」に,さらに「老後の初心」に移っていかなくてはいけない。このあたりに世阿弥の意図がありそうだ。医師になって20年も経つ私のようなものが,医師になりたてのころの初心ばかりにこだわっているとどうなるか。成長が止まってしまう。そんなものはむしろ忘れてしまえ。まあそうは言っていないけど,「時々の初心」,この言葉は使える。生涯教育とは,「時々の初心」である。

 

 「時々の初心」,かなりしっくり来る。つまり私自身,ということだ。当初の初心と修行が進んでからの初心があるように,かつての私と今の私がある。かつての私と今の私が違っているように,昨日の自分と今日の自分でさえも多少は違っている。つねに「時々の自分」がある。そしてそのうち「老後の自分」だ。一貫した不変の自分があるわけじゃない。ましてや本当の自分など。「時々の自分」,それが大事である。本当の私,自分らしい私,そんなものはいいから,「時々の私」に向き合いなさい。

 

是非とも自分忘るべからず
時々の自分忘るべからず
老後の自分忘るべからず

 

 3行セットで覚えることが重要だ。1行目だけでは意味がまったく逆になる。初心も自分も以前と違っている。違っているというか,初心も,自分も流転するのだ。古い自分を捨てながら成長していく。同じ初心がその都度形を変えていくように,同じ自分も変わっていく。

 

 初心を忘れないようにするとしたら,自分を見失わないようにするとしたら,多分そういうことでしかありえない。そういうこととは,「時々の初心」,つまり変化する初心,ということだ。昨日と今日で変わっているかもしれない初心を持ち続ける。多分それでいいのだ。時とともに変化していく初心。一貫した初心とは,そういうことに違いないと思う。そしてそれは,自分自身ということにも重なっている。つまり初心にも,自分にもあまりこだわらなくていいということ。何が初心だったか,何が本当の自分だったか,そんなことはどうでもいいということ。こだわらないことにより,「時々の初心」「時々の自分」への道が開ける。

 

 つまり,研修医には,そして自分自身にも,こういうべきである。

 

「古い初心を忘れろ。時々の初心が重要だ。古い失敗にとらわれるな。今の失敗を乗り越えろ」

次回につづく


本連載はフィクションであり,実在する人物,団体,施設とは関係がありません。

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