医学界新聞

連載

2015.06.22


看護のアジェンダ
 看護・医療界の"いま"を見つめ直し,読み解き,
 未来に向けたアジェンダ(検討課題)を提示します。
〈第126回〉
ラストメッセージ
――中西睦子先生の死を悼む

井部俊子
聖路加国際大学学長


前回よりつづく

 私が中西先生の訃報を知ったのは2015年5月5日でした。ケータイの留守電メッセージに,森山美知子さん(広島大学大学院)が落ち着いた声で,前夜自宅で亡くなられたことを告げていました。私は連休中で,真新しい北陸新幹線で糸魚川の実家に帰っていました。初夏のような陽気でした。私は近くの海岸を歩きながら,中西先生が亡くなったことが現実であることを受け入れようとしました。「巨星墜つ」と思いました。

中西睦子氏(1997年12月,第17回日本看護科学学会の会長講演にて)
 中西先生の体調が良くないと聞いていましたので,覚悟はしていました。私が先生に最後にお目にかかったのは,日本看護管理学会の名誉会員となっていただくことをお願いするため,理事長の鶴田惠子さん(日本赤十字看護大学)と共に国際医療福祉大学大学院の研究室を訪れたときでした。

 私は,1987年4月から3年間,まだ出来たての日本赤十字看護大学で初めて教員をしました。そのときの上司(教授)が中西先生でした。「大学では助手は人間扱いされないのよ」というセリフに驚かされました。私は講師でしたので,内心,人間だと思ってほっとしました。中西先生と共に,私は看護教育者としての経験を重ねることができたことを誇りに思っています。そのころ,中西先生のもとで議論し,中西先生の毒舌を肥やしにした仲間は「中西軍団」と自称していました。まるで松下村塾のようでした。中西先生の主食はビールでした。ヨレヨレの手帳には無雑作に一万円札が挟まっていたのを覚えています。気前のいい方でした。

 2014年3月に,12年間にわたる国際医療福祉大学の仕事を終えたというはがきを受け取りました。「今後は,ささやかながら充実していた来し方の整理と心身の静養に努めつつ,皆さまの今後のさらなるご活躍を期待する所存でございます」とありました。私も退任のあいさつ状に「ささやかながら充実していた来し方」と書きたい,と中西先生に返信しました。

 その後,その「ささやかながら充実していた」という謙遜した偉大な業績が,くしくも出版されようとしていたことを知りました。本のタイトルは『異端の看護教育 中西睦子が語る』です。医学書院の七尾清さんのご厚意で,昨日,校正原稿を読ませていただきました。全部,読みました。わくわくしました。中西先生が立ち現われたようでした。

 このような目次です。「教養とはバランス感覚である」「看護はいまだ自画像を描けていない」「ナースをダメにしたのは看護教育である」「生意気なナースを育てなさい」「臨床の現実に合わせるような実習ではいけない」「看護の大理論はやがていらなくなる」「研究の結果そのものには期待していない」「目覚めた人がものを言う態勢をどうつくるか」「“敵は誰か”を見失ってはいけない」「看護部長にスニーカーとボクシングのグローブを」「看護に自由と遊びを」という11章の構成です。

 「だから,私がいう“生意気なナース”というのは,言葉だけの“厚化粧”を振り払って,本当の意味で患者の側に身を置きながら,成熟した“怒り”と共に働くことができるナースたち。そして,現実にある看護とその実践の姿を,誇張なくリアリスティックに捉えて,課題を見出し,自ら変えていこうとするナースたちのことなのよ」と,松澤和正さんのインタビューに答えています。これらのメッセージは,「自分が亡きあと進むべき方向性を見失うことのないように」という中西先生の思いやりのようにみえます。

 看護に注文の多かった先生ですが,ご自分の最期は看護に委ねて,旅立たれました。その生きざまと先生の残してくださった道しるべを頼りに,もう少し生きていこうと思います。感謝を込めてお別れの言葉といたします。

 以上は,2015年5月8日,横浜聖アンデレ教会での葬送式のあとに「お別れの言葉」として述べたものです。棺の前に立つとこみあげてくるものがあり,何度も言葉が詰まりました。

つづく


◆『異端の看護教育 中西睦子が語る』は7月上旬に弊社より刊行予定です(本紙編集部)。

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