医学界新聞

連載

2014.02.17

The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,"ジェネシャリスト"という新概念を提唱する。

【第8回】
医療の世界は「グレー」ディエント

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 昔の西洋医学の世界は,白黒はっきりしたものだった。

 まず,ガレノス(125-200年頃)以降の西洋医学は完全に権威主義で,「ガレノスの言っていることが正しい」でおしまい,という思考停止状態だった。これが1500年も続いたのだから,思考停止とはかくも恐ろしい代物である。

 ときに,東洋医学は何千年もの伝統があり(人によってはこれを「エビデンス」とすら呼ぶ!),その伝統故に正当性が担保されている,と主張されることがある。しかし,ガレノスの誤謬が1500年もの歴史の重みに耐え続けたことを考えると,「歴史」そのものが医学的な正当性の担保にはならないとぼくは思う。東洋医学を評価するための評価法は「伝統」以外の何かを用いる必要がある。

 さて,ルネサンス以降,ジョン・ハンター(1728-93)らによって実験医学,実証医学が進歩し,ガレノスの呪いが解け始めたヨーロッパでも,やはり医療の世界はわりと白黒はっきりしていた。

 感染症が人類にとって最大の脅威だった頃の時代だ。ハンターの弟子であったエドワード・ジェンナー(1749-1823)は天然痘ワクチン(牛痘)という医学史上に残る業績を挙げる。なるほど,使用初期こそ「接種すると牛になる」などデマが流れたが,その圧倒的な効果は,圧倒的な天然痘の脅威と大きなコントラストを作った。

 1980年に撲滅宣言が出された天然痘対策は,医学史上もっとも「白黒はっきりした」物語であった。もっとも,ワクチンを打つと人間が「動物化する」というデマは21世紀の現在でも残っているのだけれど(例;由井寅子.それでもあなたは新型インフルエンザワクチンを打ちますか?.ホメオパシー出版.2009)。

 ジェンナー,パスツール,コッホ,あるいはフレミングといった実験医学,実証医学(そして微生物学)の時代は,医学が医学史上もっとも白黒はっきりしていた時代であった。天然痘や狂犬病,破傷風やジフテリアは予防接種で予防。肺炎球菌やブドウ球菌は抗菌薬で治療,とシンプルなモデルが通用した。

 ところが,現代医学は難しい。それほど白黒はっきりしないのが,むしろ「主流」である。エビデンス・ベイスド・メディシン(EBM)の概念が確立されてくるとともに,われわれのやっている医療行為が「それほど」効果がないことが逆説的にわかってきた。高血圧,糖尿病,脂質異常,そして数々のがん。新しい治療法はどんどん開発されていくが,それはパキッと竹を割ったような効果を示すものではない。高血圧にアンジオテンシンII受容体拮抗薬を処方しても,脳卒中や心筋梗塞(そしてその結果起きる死亡)が全部チャラになるわけではない。糖尿病にDPP-4阻害薬を……,脂質異常にスタチンを……,すべて同じである。

 疾病リスクの現象は相対的に示され,「薬を飲まない場合と比較すると」という枕詞で示される。ぼくらはEBMチックな現代医療の言葉遣いにどっぷり浸かっているから,こういう話法をもはや疑いもしないけれども,そもそもある治療法が圧倒的に絶対的に効果があるのなら,比較対照なんて置く必要はないのである。比較対照を置かねばならないこと,そのことそのものがその治療法の効果が「微妙」であることを逆説的に示しているのである。

 NNT(number needed to treat)という概念も同様である。患者さんが期待するであろう百発百中の治療であれば,NNTは1であり,話はそこで終わってしまう。そうならないからこそ,NNTという概念が重要視されるのである。スタチンの臨床効果を示した有名な,4Sスタディー(冠動脈疾患既往のある患者へのシンバスタチン〔リポバス®〕の治療効果を吟味した)では,ITT解析での全死亡をアウトカムにしたときのNNTはおよそ30である。NNT 30と言えば,臨床家なら「なかなかいいじゃん」と感じる数字だろうが(数字の捉え方は主観そのものである),30人治療してようやく1人が得をするというのは「割に合わない」と考える一般の人は多いんじゃないか。それはもちろん,EBMの瑕疵ではない。EBMのおかげで,われわれの提供している先進的な医療が「この程度」だということが看破されただけの話だ。それは現代医療の瑕疵でもない。EBMによるデータの定量化,可視化がわれわれの(やや)矮小な世界を顕在化させただけだ。昔の瀉血だとか水銀治療だとかは,そのような数的データがないくらい,まやかし度の高いものだったのだ。

 EBMの根っこのところにある「比較対照」は,ひとつの二元論的世界観を構成する。「あれか」「これか」の問題に収斂されるからだ。2×2表に代表される,「あれか」「これか」の世界観。例えば,「喫煙」の「あり」「なし」,CRPの「陽性」「陰性」。あるいはスピード違反の「あり」「なし」でもよい。

 しかし,「スピード違反」は,一意的に「スピード違反」なのではない。少なくとも,そのように一意的に規定する必要はない。1km/時のスピード違反と,30km/時のそれとは「異なる」スピード違反である。CRPが1mg/dLと30mg/dLとでは違うように。少なくとも,そう解釈することは可能である(解釈そのものは「恣意的」なので良いも,悪いもない)。では,0.5km/時のスピード違反はどうか。ほとんど「違反なし」のほうに近い概念なのではないか。少なくとも,そう解釈できないことはない。同様のことは,腫瘍マーカーや生活習慣など,医療のあらゆるところにアプライできるのではないか。

 シロやクロの存在は,医療の世界ではほとんどマレである。ほとんどがグレーのどこか,グレーディエントのどこかにある。だから,シロかクロかのどちらか,という二元論ではなく,「どのくらいグレーか」という命題のほうが,医療の世界にはうまくフィットしている。今回の話はややこしかったと思うけど,「わかる」「わからん」ではなく,どのくらい……。

つづく

参考文献
1)茨城保.まんが医学の歴史.医学書院,2008.
2)岩田健太郎.予防接種は「効く」のか.光文社.2010.
3)岩田健太郎訳.ナラティブとエビデンスの間.メディカル・サイエンス・インターナショナル.2013
4)Randomised trial of cholesterol lowering in 4444 patients with coronary heart disease: the Scandinavian Simvastatin Survival Study (4S). Lancet. 1994; 344 (8934): 1383-9.

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